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「政治的無活動状態」にある人へ
正直、こういったことを長々とここに書くのには、躊躇しました。

実際に以下は数日前書いていたもの。


それでも偽りない本心であるから、ちゃんと記しておくべきだと思い直し
ここに投稿します。


ちょっと大袈裟な導入になっちゃったかな?



ーーーーーー



先日の東京滞在では、映画や映像を続けているかつての同志たちの作品を観させてもらったり
脚本やプロットを見聞きしたり、議論したり
日頃とはまた違う筋肉を使うようで、懐かしい疲労感を感じつつ彼らと別れてきました。

お土産にいただいた彼らの新作DVD、まったく趣きの違うもの2本を先頃観賞。




以前ここにも書いたかと思いますが、
僕自身映画映像作りを志してきたものの、
「日常から離れようとするそのもとよりの指向性」への違和感を拭いきれないまま
あるいは素材との距離感や関係性に行き詰まりを覚えて
“やきもの作家”へと転向したわけなのですが、
最近自分のありように多少の危うさを感じ始めています。

自分の、というより自分を含め同業、同種「作家」業を営む多くを見るにつけ危機感を待たずにはいられません。


僕らのような世代は、外へ外への膨張、越境思考の限界とそれの反面にある暗がりを感知して、あるいは体験して、
いつからか外への無関心を装い、内に向き、ローカルな掘り起こしとか孤独をポジティブにとらえた個人主義に傾いているけれど

本当にそれでゆく先が拓くのか。


素材によらず、個人作家は増える一途を辿り
暮らすことそのものや生活道具に衆目が集まっていて
老いも若きも男も女も、家庭にウェートを移しつつある。

今思えば、僕が映画から工芸へ心が移行したのにもそんな背景があったろう。
その選択に間違いはなかったと、今でも断言できるしこれからにも自信はある。

けれど重要なのは、その選択がけしてネガティブなものではなかったということ。
消去法でここにきたわけではないということ。


外=社会での挫折が内=自己を省みるきっかけとなることは当然として
その個が、逃げ込むに十全な場所であろうはずがない。
個は常に社会との関係においてのみ立ち現れるのだから。
世界における「日本」、と同じこと。


「社会なんて関係ない」「生活レベルに影響ない」と吐き捨てようが、
自由へと逃げあがこうが、気づけば仏の掌。
浮き世からは本質的に忌避できない。



確かに、ここ数年だけでも一見すると同期同世代映画人達の撮るものは
テクニカルなところから映画的ダイナミズムを経て、いち個の心象へとミクロに部分にフォーカスが当たるようになった。
社会の猛スピードの拡大路線とは裏腹に見える。

けれど彼らは、映画というシステム(制作であれ上映であれ)においてまず間違いなく社会と関わっていかざるをえない。
「隠遁」ぶって生きること(作ること)は不可能なわけで、
常にそういった拡張と収斂の綱引きに身をさらし、矛盾を抱えつつ、作ることを真剣に考えている。

少なくとも僕から見た限りでは、そう感じられる。



かたや工芸・クラフト。

ドメスティックな現場のみできれいに回りきっているように、見えなくもない。
良いも悪いも個々の生活において判断されるだけ。
もうそれが何百年ものあいだ連綿と続いている、と思われている。

道具という意味では誰にとっても当たり前。
工程は工程でしかなく、形は形。必然のモノ。


でも、

そこに思想はなかったか?
そもそもそこが社会との接点ではなかったか?
道具という意味で。


僕らはいつの頃からか
かたちばかりの、からっぽの道具を作ってしまっていやしないか?





人が、なによりまず人であるために生きる基本へ軸足を据えることは、言うまでもなく必要で
暮らしへの関心は大前提として持っていたい。

でもそれは、結局のところ土台。
柱が建ち、梁が通り、屋根が葺かれるための地盤基礎。

基礎の上に何を建てるか。
そこからが本当の始まり。

地に足着いたいち生活者として、ではどう社会に関わっていくか。



最近そういうことをよく考える。
作り手だからなおのこと。

日々同じ工程の繰り返しの中で、ひたすらに手を動かしていると
自然、思いや考えは削ぎ落とされていって、あたかもひとりでにモノが立ち上がっていくような錯覚を起こすけれど
でき上がったものは道具である以上、どなたかの生活の中で一役を担い、どなたかの人生にささやかながらに関わる。
意図的であれ「手が勝手に‥」であれ、そうなった時点で僕はものを通して人に、社会に関わってしまっている。

仮に見て見ぬ振りが可能だとしても。



責任を持つことがプロフェッショナルの仕事、という認識は皆が持っている。
けれどたいていの場合、その責任の設定範囲はそのモノにおいてのみで留まっている。
それではどうにも不十分だと、僕には思えてなりません。

そのものが使われることで、もっといえば在ることだけで巻き起こすもろもろにも作家は責任を持つべきだ、ということ。

もちろん、「すべてのユーザーのケアを」とか「クレーム対処を」とかそういうことじゃなく
意識のレベル。
外へ出す、その時その瞬間に初めて、社会における自作のもののありようを自覚しておく必要性が生じるのだと思うのです。


社会に身を置きながら、社会に目をつぶっているようでは作り手として心もとない。



ともすると内なる深みへと傾斜しがちな稼業だから、
轆轤への没頭から覚めて、ぞっとすることくらい僕にもあります。
根本はほとんどオタクですから。
ただ、
そういう危うさを自認しているからこそ、僕は時事との接点を意識的に持とうとしていますし
ことあるごとにまとめて新聞を読んだり、その種の書籍も積極的に読むようにしています。
そして常日頃から同業者に限らず、人と議論をする場を求めています。

それが、社会人としての務め。責務。




ローカルに閉じて内向して、小さなファンタジーを演出してみても、それは所詮偽装。

社会のシステムは滞りなく遂行されていきます。


逃げも隠れもできない、社会の一部たる僕らがそれに抗う方法は一つしかありません。
参加意識を持つこと。

こもっては先へ進めない。
とかくそういった方向へ流れてしまいやすい作家業界の性質にも、批判的な目をもって注視していかなければいけない。


自戒を込めつつ、
あらためてそう思う、今日この頃です。
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by aji-kyuu | 2010-11-29 21:37 | 考える | Comments(0)
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