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カテゴリ:観る( 9 )
地に足つけて空を見上げること
b0156116_0161118.jpg頂き物のパウンドケーキ。

今月は生まれ月だったのもあって、
いろいろな方から贈り物が。

どれも美味しくいただきました。
ありがとうございました。


いまだ冷凍庫はコーヒーで埋まっています。

灰〆    板中


ここのところなぜだか続けざまに映画を観ました。
不意の思い付きと時間的余裕がたまたまカチリと合わさって。
何かに導かれるように。


『ぐるりのこと』(橋口亮輔 監督)『気球クラブ、その後』(園子温 監督)

観れば導かれたのも頷ける二本でした。

どちらも人生の中である同じような段階に差し掛かった男と女の話。

身につまされるというか、今の自分をとりまく状況と心うちを表象してくれている映画で
ちょっと目を背けたくなるようなくらいに刺さってくる。

とりわけ『気球クラブ〜』はそのロケ地が6、7年前の自分の映画(一週間近くキャンプを張って撮影した。)のロケ地と同じだったこともあって
なおさら胸の奥を掻き回されるような感覚。


栃木や群馬にまたがる渡良瀬遊水池周辺はただただ広大なからの地が広がっているところで(有事に貯水池とされる)
先の見えない一本道がのびていたり、朝靄が立つとほとんどサバンナのようだったり。
休みになると、空が埋め尽くされるくらいに気球の上がるスポットでした。

当時、映画という夢を一心に見上げていた僕には、
レンタサイクルの上から見るその視線の先の気球たちは一点の陰りもない希望の象徴のようで
むしろ心境はその気球にまさに乗り込んでいる側の人間だったのだろうと思う。

今、
僕は多分あの目で気球は見られない。
地上で憂いをもって見守る女性(映画内では永作博美)にシンクロしてしまうから。
できない。
乗るなんてまず考えられない。



といいつつ

それでも時々、足は地べたから離さず直視はならなくても横目にでもいいから
それが飛んでいるであろう空を見上げていたい。

そう思うのが男って生きものなのかもしれないな。


リリー・フランキーの名演(『ぐるりのこと』)が、そう語っています。
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by aji-kyuu | 2010-09-27 01:42 | 観る | Comments(0)
ひと針ひと針が繋ぎ留めるもの
関東圏の方へ、心底お勧めの展示があります。

展示会というより、とあるミュージアム(実質資料館)の常設展示。


東京は浅草、浅草寺すぐ脇にアミューズミュージアムという施設があります。
本当に喧噪のすぐ脇、旧いビルを利用しているためさほど新しさをアピールしていない外観ですが
まだオープン一年に満たないミュージアムです。


ここに納められているのは、民俗学研究者の田中忠三郎がコレクションした衣類、民具など。
いまや歴史的価値すら見いだせるような下北半島地域の忘れ去られた農民具が常設されています。


先日東京に出た際に、何で得たのかそのミュージアムが良さそうだ、とそれなりに期待して行ったのですが‥



打ちのめされました。

惚れ惚れして、興奮して、ちょっと泣きそうになりました。

もの凄く素晴らしい所蔵品です。


なかでも圧巻は「ぼろ」と呼ばれる衣類。
麻や当時貴重な綿を何世代にも渡って継ぎ接ぎしながら使い続けた農作業着や防寒着などなど。

あの刺し子の気の遠くなるようなひと針ひと針。
擦り切れた布目からのぞく痩せた綿塊。
テキスタイルデザインの妙。

そしてなにより、それら衣類のもったりした厚みとじっとりとした重み。
継がれてきた月日が確かに詰まっている感。

実はここ、展示物のほとんどが“さわれる”のです。


本来史料的価値が高いといえど民具たるや触ってなんぼ。
とはいえ現実そんな奇跡的な資料館他にありません。
まして、布製品。

いつまで続けられるか難しいところでしょうけれど、
アミューズのこの展示方針はとてもとても意義あることだと思います。

残念ながら、路上の人出に照らすと客足はいまひとつでしたし
立地の正否含め、展示スタイルに首を傾げざるを得ないところもありましたが
それを差し引いても余りある良い品々。




しかし本当に、頭の下がる時代です。

ひとつのものにこうも執着して、膨大な手間と恐ろしいくらいの時間を捧げていた頃。
あえて言うまでもないことだけれど、自分が恥ずかしい。


しかも当時の人々にそうさせていた原動力は経済的貧困を背景にするものの、まず家族への愛。
人への思い。
それがなけりゃ、闇夜に寒さを堪えたった一人で何時間もちくちく刺し子なんてできっこない。


命懸けて子へ「生」を繋いでいこうという仕事。
そうした宛先のある仕事には到底かないっこありません。

思い知りました。



ファッションやテキスタイル関連を志している人はもちろん、なにかものを作っている人作ろうという人
絶対に見てきてください。触ってきてください。
写真じゃ駄目です。



個人が個人にものを作るというのはこれくらいの気概が愛が必要なのかもしれない。
それが生活道具ならなおさら。




今回はたまたま映画『Flowers』を観た後だったから、
より突き刺さりました。



繋いでいきたい。

人としても作家としても。
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by aji-kyuu | 2010-07-02 22:14 | 観る | Comments(0)
堅くて柔らかい
b0156116_2103285.jpg昼飯の定番。

うどんはうどんでも
愛知は名古屋の味噌煮込みうどんに使われる麺のたいていはかなりコシが強い。
かたいとか粉っぽいとか、好き嫌いの分かれるところ。




赤土+白化粧+長石釉  大碗




先日、用事のついでに愛知県の豊田市美術館へ。

建築空間から所蔵品、企画内容どれをとっても素晴らしい美術館で
以前から時間が許せば足を運んでいるところ。

美術をやっている友人がそこを展示会場にする大きなコンペに入賞した(しかも準大賞!)とのことだったので。


大学生当時、陶芸のサークルを通じて知り合った彼女は
粘土の状態での不定形とやきものとしたときの強固な物体感の間にぼんやりとある危うげな触感みたいなものに
ちょっと異様なくらい執着しているように見えた。

ぐんにゃりと焼き固まる、というようなことに。


で、今回の公募展で彼女の作品をほとんど初めてライブで観たのだけれど
驚きました。
驚くほど良かった。
ひいき目差し引いても、他の入賞作から抜きん出ていました。


「展示物」である以上、十中八九人は目で観る。
でもその目で視たものを目でのみ感覚するということにすべての人は慣れきっていて
体験が体験として知覚できず広がらず、面白くないと感じる。

例えば、あるものを目で視ながらにして他で感覚できたら ——


彼女の作品は“柔らかく”固まった立体。
軽妙で重厚。
どろどろと、それでもさらりあっけらかんと。


目から肌に触覚に実際以上の生々しさをもって伝わってくるものでした。


表す内容の深部まで話すのは避けますが、
ともあれ見事な表現だったと思います。



端から、遠くから見ているだけでもここまでに紆余曲折あった彼女。

いいメディアをみつけたんだね
信じ続けてきて良かったね

次会えたら、そんなことを言いたい。





そしてすべての人に

視覚はもう充分使い込んだ。
ここからは触覚にものいわせませんか?
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by aji-kyuu | 2010-02-28 22:10 | 観る | Comments(0)
僕を作ってきた作家達・10 —King of Popに捧ぐ—
あれだけ世界を揺るがした訃報もない
と思いつつも、
いくらかほとぼりが冷めてきたように感じるこの頃なので

書いてみることにしました。

" The True King of Pop, Rock And Soul"、マイケル・ジャクソンについて。



6月25日。

彼の死を移動中の車で聞いたとき、「嘘だろ嘘だろ」とボリュームを上げつつ
僕は
なんだか心に隙間が拡がっていくような、妙な喪失感に襲われました。


彼の熱心なファンでもないし、これまで特に意識してきた人ではなかったのに‥
そんな自分の反応に動揺すらしました。

あの日、
おそらく全世界中で僕と同じように不思議な心持ちを覚えた人が五万といたことだと思う。
それくらいに、彼は「時の人」でした。



そして手繰る、僕の中のマイケル・ジャクソン。

小学生の、たしか低学年。
盆に正月に家族で訪ねていた祖父母の田舎で同居する叔父に観せてもらったレーザーディスク。
その中にマイケルのものがあった。

『Thriller』のショートフィルムだったのだろうか。
(実際なんであったか、あれ以来観ていないのでさだかではない。)

少年のマイケルが煙幕から出てくると青年になっていたり、
彼の影がみるみるスポーツカーのものへ変身したり、
錆び付いた工場跡で何十人も揃えてダンスしていたり。

薄暗くて、ギラついていて、
泥臭くセンシティブ。


まだまだコワッパの当時の僕にとって、それは凄まじく鮮烈な映像で、とにかく深く刻まれた記憶。
あれ以降一度も観返していないのも、思えば恐さが先立って避けていたということだったのかもしれない。
にも関わらず、パートパートは鮮明によみがえるのだから、よほどの映像体験だったわけで。



今にして、
これまでの最も濃い時間を費やしてきた「映画」というメディアへの興味は
この時おぼろげに自覚された。
そう言ってもいいのかな。



次に彼と再会したのは中学生になってから。

その頃リリースされた『Histry』というベスト盤を仲間うちで回し聴いたっけ。
スティービー・ワンダーやサイモン&ガーファンクルら“洋楽”にかぶれながらも
ほぼ初めてまともに聴いた彼の音楽。

やっぱりカッコ良かった。

小さなCDラジカセで何度もリピートかけた。






マイケル・ジャクソン。
曲がりなりにも、
彼と同じ時代に生きられたことに感謝。

有り難う。
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by aji-kyuu | 2009-07-28 22:17 | 観る | Comments(0)
遠くなり近くなる水音のひとり
先週末、用事で長野に出掛けていた。
ちょうど信州善光寺の“数え年で七年に一度の盛儀”という「善光寺前立本尊御開帳」だとかで
えらく混みあった門前通り沿い、瓦葺き白壁の旧きを模した商店建築が多い中
フラットで非装飾な正面ガラス張りの北野カルチュラルセンターにてひっそりと開催されていた
「山頭火の善光寺みち展」にふらり立ち寄ってみた。

種田山頭火。自由律俳人。漂泊の人。
山頭火と、彼がある時期旅の途上で訪ね歩いた信州の俳句仲間との交流を紹介する
といった内容。

広すぎず狭すぎず、
ひと気はさっぱりなもののきりりと締まった展示空間。
胸が騒ぐ。


案の定、そこに掛けられた幾幅かの自筆の句書にあっという間
がっちり掴まれてしまった。


控えめで優れた軸装。
書の剛胆さと研がれたセンス。
そして、句のぬるくも澄んだあじわい。


— 飲みたい水が音たてていた —




知っていた。
確かに国語で習った名です。
でも

またしても出合い頭の衝突。
しばらくはこの作家に委ねてみたい。連れられたい。

ひとまず、よい句集を探そうと思う。
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by aji-kyuu | 2009-06-01 22:52 | 観る | Comments(0)
僕を作ってきた作家達・7
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今朝、大根の花が咲いているのに気付いた。

台所の窓辺で、水を張ったお皿に浮かべておいた大根のあたま。
葉がわさわさ繁るのを期待したものの、中心から一本の茎が伸び続けるだけで
しばし見放してしまっていたところに、思いがけず小さな黄色い花がついた。


と、ここまでは良かった。


写真に撮って数時間後、昼時にふと見ると
花を付けた先からくたりと折れている。
小さいながらも活き活きと生を主張してみえたそれが
まるで魂を抜き取られたかのように‥

その昔、写真機の黎明期。
写真に撮られると魂が抜かれる、と本気で怖れる人らがいたという。

いや、まさかね。



そんなことにちらと心がささめくのを覚えながら
以前使っていたNIKONのフィルムカメラを久々に眺めてみた。

映像を志して大学へ通ったその前半期。
学外では仲間と映画作りに、学内ではもっぱら写真について学んでいた。
ピンホールからモノクロ現像、カラープリントまで
自ら選択して、それなりの熱意とその手段への根拠ない信用を注ぎ込んでいた。
「とにかく数を撮れ」といった方針に反発しながらも
今ふりかえってみると、先の道筋をみつけた思いだったのかもしれない。

だから自然、写真の展覧会へは積極的に出向いたし写真史も掘り返した。

その両方からぶち当たり、結果僕を写真から遠ざけた写真家がいる。
中平卓馬
60〜70年代の日本写真界を批評の面からも解体し、再構築しようとした小さな巨人。
伝説の人。


彼の大回顧展が横浜美術館で開かれた。(「原点復帰—横浜 中平卓馬展」2003年)

そこで目撃した記憶喪失直前期の一連の“図鑑”的写真群や近年の気負いないカラープリント、
そしてなにより天井から床まで印画紙を裸で何十枚と連ね壁一面を覆った展示に愕然とし、
なおかつその際購入した「なぜ、植物図鑑か?」等の評論集に深くまで届くボディブローを見舞われ、
僕の軸脚は写真から離れた。
もっと言えば、逃げた。



何年経てもなお、中平卓馬という人とフィルムカメラは僕の内に敗北感を仄めかせる。
それに今気付く。

とはいえ、何年ぶりかに開く彼の写真論集は(もとより発行は1973年!)それでも褪せずに響く言葉が詰まっていて
現在の僕の仕事とリンクして読めてしまうことも事実。


無機と有機のあいだ
鉱物と動物のあいだ
そのあいだに曖昧な輪郭でもって生まれてくるはずのもの。
それは多分僕のいう“あじのひもの”や“きゅうりのつけもの”とほとんど見事に重なる。


どうやら一周回ってきたようです。
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by aji-kyuu | 2009-04-09 18:59 | 観る | Comments(0)
僕を作ってきた作家達・6
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豆腐をステーキしてみる。



白土+灰釉   鉢

つい先日窯から出したばかり。
このシリーズの新しい形です。

やっぱり、少し深さをつけるだけで盛り付けの“間”がぐっと広がる。
近日作品録にもアップします。

今日ひさびさに街中を車で走っていて、
すれ違う対行車の運転手3人に1人はマスクしていることに気付く。

そういえば家を出る時フロントガラスが嫌に汚れていたなあ
黄砂かと思っていたけど、どうも花粉らしい。

歩く人もたいてい顔をすっぽり。
いつの頃からかマスクも市民権を得たようで、
とはいえ、表情のうかがいにくさに慣れなくて
マスク人のそぞろ歩く光景はまだちょっと落ち着かない。

花粉症の苦難を知らないからいえるのですが。


花粉といえば思い出す。
ウォルフガング・ライプ「マツの花粉」


まだ大学に入学して一年にもならない頃、
同郷の先輩に連れられて行った郷里の美術館。
そこでたまたまやっていたのがウォルフガング・ライプの個展だった。

美術はもちろん、とりわけ当時盛んに使われ始めていた現代美術という用語に
「デザイン的なアプローチで大衆に迎合しているか、内に内にと自閉している不健全なやりくち」
くらいの、それこそ狭い認識しか持ち合わせていなかった僕には
ライプの表現を受け止められる度量も当然になく、
床にちりばめられ、なんだか判然としないぼやけた黄色や
ただそのままに白く見える正方平面は理解し難く、
ゆえにどうも引っ掛かる、そんな展示体験だったと思う。

あの時あの場所でのあの“引っ掛かる”体験は
それからいくどもいくども僕を小突き、揺すり、記憶の底に埋もれていくどころか、
緩やかに緩やかにひずみとして積み上がって、ついには僕の表現の足下をぐるり裏返すような、
そういう転換の大きなきっかけとなった気がする。

後々、当時の展示図録を探しまわったけれど
どこであれとうに在庫切れだった。


日常生活から地続きにある表現行為とその結果。
今でこそ当たり前に語れもするのだろうけれど、
芸術表現のボーダレスな側面を実感見とともにまざまざと観せてくれたのは彼でした。


ミクロとマクロ、過去と未来を自在に行き来するような
Aから非Aへと容易く接続できるような
というかそこにはもとより境界などない、あえて作ることもない、といった
そういう想像力を全身で抱き止めておきたいと切に思う。


繋げるのはいかがかとも思いつつ、
でもたぶん、そういうこと。

You may say I'm a dreamer. But I'm no the only one.

ジョン・レノン「imagine」
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by aji-kyuu | 2009-03-13 00:28 | 観る | Comments(0)
僕を作ってきた作家達・4
今日たまたま手にとって立ち読んでいた雑誌「暮らしの手帖」の中でとある画家の展覧会がレポートされていた。

昨年の秋から冬にかけて、東京の国立西洋美術館で開かれていたVilhelm Hammershoi(ヴィルヘルム・ハンマースホイ)の大回顧展。

あ、これこれ。
と。

彼の絵画と出会ったのは、もう五年ちかく前のこと。
愛読する文筆家のひとり松浦寿輝の長編小説「半島」の装画として。



例えば装幀や紙質、印刷構成やフォントが作り出すその本なりのセカイも僕にとっては重要な本選びの要素でして、
文庫より、無理をしてでもハードカバーを買う理由のすべてはそこにあったりする。

そういう中、文章内容含めほぼパーフェクトなんじゃないかと思うのが、この「半島」。

まずひと目でその装画に惹き込まれ、内の小さな説明書きを読むと描き手はどうも海外では有名な画家らしい。
しかも少なからず興味を抱いていたデンマークの映画作家カール・ドライヤに多大な影響を与えたとか。

なんだか当時の自分にとって“出会うべくして出会った”作家であるような、そんな直感から調べに調べたものの、
18世紀デンマークの室内画家という以外は美術大学の図書館にさえまともな資料もなく、ネットでも不充分。
その後も大きな本屋や古本屋で思い出すたび探しはせども‥

そうして時が経ち、東京を離れた途端
“ヴィルヘルム・ハンマースホイ展覧会”

!?
以前は“ハメルショイ”と表記されてたために一拍遅れでその告知に釘付け。

ちょうど東京での用を済ませて戻ったばかりだっただけに、残念で残念でならないけれど、観逃しました。


それでも図録くらいは手に入るだろうと。


しかし、数年前にはまったく情報もなかったはずなのに
今日のようにふと見た雑誌やらにごくありふれた調子で紹介されているということは、
やっぱり嬉しいわけで、
と同時に、美術館等含めメディアの剛力をどこか恐ろしくも思うのでした。


ハメルショイの絵について、ああだこうだと述べたいけれど
またまた長々してしまうので。
それはまた別の機会に‥


b0156116_2254415.jpg
         黄土+無釉  碗
         内容とは無関係に、さつまいもご飯。
         さしたる芋ではないはずなのに、甘くて美味くて。
         もうちょっとだけおいしいお米で、上手に炊きたいなあ。
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by aji-kyuu | 2009-02-06 23:00 | 観る | Comments(2)
僕を作ってきた作家達・1
先日、ある人から“自己紹介代わりに”とでもいうように
「好きな陶芸家は誰ですか?」と尋ねられた。

まだ業界のスタートラインに立ったばかり、ひよっ子もひよっ子なので、
当然よくされる質問‥
のはずだった。

けれど、名前が出てこない。
思い付かない。

あれれれ。

学生の頃は聞かれなくても何人も挙げていたのに。

「んー、特にいません。」
なんだか感じ悪い。
でも正直なんです。

ここ数年、まともに考えてこなかったことに気付く。


いいな、と思う器は数あれど、その作り手が好きとか嫌いとか、
あえてまで同業者としての意識はしてこなかった気がする。
生意気にも。


それでもね、影響を受けてきた、今なお受け続けている作家はたくさんいるのです。
偶然か必然か、同業の人はわずかですが。

といったわけで

そんな素晴らしい作家さん達を少しずつ紹介していきたい、と。
「僕を作ってきた作家達」
第一回。


李禹煥(リ・ウファン)

1970年代の日本美術に一大ムーブメントを起こした「もの」派と呼ばれる制作姿勢の美術家の中において、理論的にも中心的役割を担った作家。
いわゆる「ジャンル」でいうと、絵画から彫刻、インスタレーション、、、
要するに純粋に美術家です。


僕がまだ東京で映画作りを学ぶ学生だった頃、映画以前、作ることそれ自体への疑念でもがき苦しんでいた時に、なにかの拍子で彼の論考に出会った。
『出会いを求めて』という著書の部分だったと思う。

どしん。
そんな衝撃音が聞こえそうなくらい、当時の僕の中の言葉にできない濁りを瞬時に吹き飛ばして、澄み切ったその先を覗かせてくれる論集で、
恥ずかしながら「もの」派すらまともに知らなかった僕は、それからというもの彼を追いかけ、周辺含めた色々を勉強したっけ。

確か2005年、横浜美術館で大きな個展を開催した時なんかは、その力にもうただただ立ち尽くして、ほぼ丸一日李禹煥に費やした。
いまだに人生で最も良かったと思える展示はこの時のもの。

とにかく、口で(言葉で)説明するのは野暮。
そういうものを作り続けている作家。


瀬戸の陶作家で、僕のバックグラウンドをあまり知らないはずの人が
「もの派みたいな‥」
と僕の器を評した時、思い掛けないワードにどきりと。

繋げて意識はしていないつもりだったけれど、そりゃ嗅覚優れていればすぐ分かるか。
そのくらい根底で繋がり得る思想が僕の中にも流れているのです。

李禹煥。
僕を語る上で絶対に外せない一人。




関連して

昨年たまたま関東に滞在中、その「もの」派の記念碑的作品『位相−大地−』(関根伸夫)が多摩で再制作され、展示してあるという記事を新聞に見つけ、勢い込んで出かけたものの、その光景にがっかり。

あれをあんな高台にやっては駄目でしょ。
まったく力失って、縮こまっていた。


地球ってホントでかすぎる!
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by aji-kyuu | 2009-01-18 18:03 | 観る | Comments(0)