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火を囲み
10日ほど空けていた家に、一昨日帰ってきました。


近所に新しいファストフードが建っていたり、
小屋が取り壊されていたり、
道路が新たに敷設されていたり、
遠くに見える山並に雪化粧がされていることに、今日気付きました。

2011年ももうわずかなのですね。



東京茗荷谷での ADACHI Takeshi "Noyaki" exibition が終了しました。

思い余って飛び込んだ、冒険的な企画。
正直なところ、
不慣れや力不足で満足とはほど遠い結果でしたが
それでも、作る過程での体験、作品を介したお客さまとの語らいの中で
本当に多くのものを得られた展示会でした。

ものというのは、いち個の現物それのみ以上の広がりをそもそもにして孕んでいるのだな、といつも以上に思わされる機会でした。

とくに印象に残ったのは、とある山間地でNPOとして活動されている方との会話。

大きな流れに乗っかって、ぐいぐいと動かすのもいいけれど、
細々とでいいから、自分の体と頭を使ってじわりじわりにじり寄ることが
実は物事を変えていく最良の策ではなかろうか
というお話。
その方、世代も生活環境も異なるお相手だっただけに、
お言葉の節々に、共感を越えてなんだか感激してしまいました。

僕だけじゃあない。


他にも沢山の方々が僕の思いを聞いてくださり、ご自身の思いを語ってくださり
展示会というよりは、一種コミュニケーションの場として機能していたように思います。

どこか焚火に手をかざしながらする会話に似て。



お越しくださいました皆さま、有り難うございました。
今回の展示体験が皆さまの日々の何らかに繋がっていきましたら幸いです。


そして、
この“野焼”というアクション、今後ともじっくり続けていきたいと考えている今現在です。





また、東京吉祥寺で開催していましたグループ展 OKURIMONO GALLERY も終了しています。

こちらでも、ほかで得られない、またちょと面白い経験ができました。


個展会場の茗荷谷から回って来てくださった方もいらっしゃったようで、
本当にありがとうございました。

企画やもろもろの段取りに動いてくださったかつての仲間たちにも、
大変感謝しています。
おかげで、モチベーションを新たにできました。






これで充電充分。
ここからもたゆまず、次へ次へと進めてまいります。

ひとまずは年をまたいでもしばらくの間、いただいている注文品の制作にかかりっきりになりそうです。


次なる展示は2月。

東京に愛知にと、またまたいくつか異なるかたちでの展示会に出展させていただくことになっています。


いずれも詳細はあらためて。


今後ともどうぞよろしくお願いします。
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by aji-kyuu | 2011-12-20 23:14 | 考える | Comments(0)
違う、というその豊かさ
瞬く間の夏。


京都の山奥「山ノ上マーケット」からすでに一週間以上経過してしまっていました。

お越し下さいました皆様、遅ればせながら有り難うございました。


アクセスに少々ご不便をおかけしたかと思いますが
道中も含めてこそ旅の楽しみとするなら、とても満足していただける一日となったのではないでしょうか。

かくいう僕も、行き帰りでの移動中寄り道したり、足を伸ばしたりできたこと、
その先での人や景色との出会いなどをひっくるめて
今年もまた、本当にいいイベントとなりました。


もちろん本編「マーケット」での新しい方々との関わりは、これからの長い先々で生きてくることでしょう。

こういうのが好きなんだ、と器を買ってくださった方の目の輝きを間近で見、
そうかそんなにか、といつしか「当たり前」になりつつある自分のもの作りの根を確かめたり

先を行く諸先輩方のやり方、生き方を目の当たりにして自分のゆく先に目を細めたり

物理的にも精神的にも離れていたばかりか、これまで交差することのなかった同世代の中に
同じ時代をもがいているいち人間としての共感覚と、
その発露の多様を、この目耳肌で感じることができました。


バラバラなところでバラバラなことをしているありとあらゆる作家、経営者、お客さん、あるいはそういった立場をも超えた人々が
なんらかの縁でああして集まって、一つの場を築く。

その豊かさへ、深く感謝しています。




高原の夜はやっぱり涼しく、こちらへ戻ってげんなりです。



b0156116_21123892.jpgそんなおり、
この春長野の有機農園で働き始めた姉夫婦より野菜セットが届きました。


美味しいのは言うまでもなく
何より「違う」ということ。


トマトとかカボチャとか小松菜とか、
これまで食べてきた野菜とは
明らかにちがった味わい。
もっと言えば、ちがった茹だり具合、火の通り加減、塩みの入り方。

これには正直驚きました。



思い出すのは先日、縁あって立ち会わせていただいた料理家さんの台所すがたと、その言葉。
「その時期、その場、そのものによって、分量も手順も変わるのが当然」。

何をどれだけ入れたかなんてその日その時かぎり
とでもいうようなとても人間らしいその料理に(そのシーンに?)、この上ない贅を感じたものでした。





違いに目くじらをたてるでなく、
違いに嬉々とできるような、
そんな作家であれたらと思う。
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by aji-kyuu | 2011-08-16 21:40 | 考える | Comments(3)
授援力
ふた月ほど前、東北で復興活動に動き始めたNPO法人の代表が言っていたこと。


「被災地には授援力が必要。」



援助の物資、手が来た時にそれを受け入れられる体制を、システムを構築しておかなければならない
ということ。

表現への配慮が足らないと現場感情を刺激して、
前担当大臣のように波紋を呼んでしまうのだろうけれど
言わんとするところはしごく正しいと思う。


とある地では、
世界中から集まった義援金の配分を
旧態依然とした商工会系が強引に取りまとめようとしたため、協議が紛糾。
一時支給に滞りが出て、無用な対立をあぶり出してしまった
と聞く。


各間の連携と利害の調整を「政治」とするならば、
それを局所的に、微に細に適ったかたちで実現していくことを国政に求めるのは
まずもってナンセンスだし、
個々が個々の背景と感情を背負って「現場の声を聞いて!」と叫びを発したって
それで大きなところが動きだせるわけではない。
個人の感情を揺さぶることはできたとしても。



場末の居酒屋で「この業界は腐ってる」なんて、涙ながらに愚痴っても
それは毎晩続くだけ。
大局は動かない。

そういった心の叫びをリサーチしてまとめあげて、塊にして、提示すること。
このアプローチは当事者か、ごく近い人間にしかできないこと。

個々の感情は嘘ではないし、そもそもそれが始まりにして一番大切だから
それに同意、ないしそれを汲み取れる者が動かなければいけない。




政治離れ、政治嫌い

縁故、しがらみへの嫌悪感

度が過ぎた個人主義


そういった価値観、主義志向に知らず知らず浸っていた僕らは
大きな物語を作れない、小流すら作りえないちっぽけな存在になっていたのでは?



自分を生かし、隣の大切な人を生かし、
親子ども、親友仲間を生かすには
こちらが起点となるような政治、小さな小さな社会単位からの政治が必要だと
あらためて思います。

そんなことができるシステム。
大袈裟でなくてもそういった小集合を整えておくことが、実は本当のセーフティーネットになったりする。


自戒も込めて、そう思うこの頃です。
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by aji-kyuu | 2011-07-06 23:20 | 考える | Comments(0)
ツイート
Make a better place .


そういえば彼も言っていたっけ。


皆が願うのだから、
だからやってみよう。

まずは足下から。
そして数歩先の、手が届くところまで。


おこがましいようですが、本気でそう思って動いています。




今日はツイート程度に。
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by aji-kyuu | 2011-06-26 00:06 | 考える | Comments(0)
どか雪との正しいつきあい方
b0156116_2125189.jpg一昨日、1月17日朝の風景。

結局この日、昼過ぎまでしっかり降って
我が家の庭の多いところで40㎝積雪。


小雪舞う中、汗びっしょりで雪掻きをして、
なんとか道路までの道を確保しました。


今日は天気良く、
時折「ドサッ、ザザー」と屋根から雪崩落ちる音。

分かっていても、ギョッとする。




先週末から週アタマにかけたこの東海地方の大雪は平野部にも結構な雪を置いていったので、
それはもうあちこちで交通網が麻痺。

通行止め、渋滞、欠航、見合わせ、徐行運転。
都市部や主要道路ではくちゃくちゃに。


ちょっと滑稽にも映る光景がそこかしこで見られました。



なんだか妙な感じ。

余計耳に残る不協和音のような。



すでに高速回転している経済的な社会システム上では、誰しもが止まることを許されない?


雨が降ろうと雪が降ろうと、はたまた槍が降ろうとも、是が非でもプログラム通り動かさなければならない、といったどこか強迫観念めいた社会心理。

太刀打ちできようのないはずの自然からの皺寄せを「無茶」で繰り上げようとするがために、
追い込まれていく人。人人。

冷静になれば、「無理」とするよりほかないのに。



平常は必ず作ることができる
自然はきっと克服できる

そんな虚妄が後ろに見え隠れします。



雪なら雪の日のやり過ごし方がある。

春はあけぼの」「冬はつとめて」、
季節に合わせた生き方がある。



無理矢理引っ張り込むのじゃなくて、
むしろこちらから歩み寄る対し方。接し方。


実はそれは僕の器作りにも通底する基本姿勢。


自然にはかなわない、それが大前提。




仕事がはかどらない、それが冬というもの。

今日もそう言い聞かせて。
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by aji-kyuu | 2011-01-19 22:17 | 考える | Comments(2)
We wish...
雨は夜更け過ぎに、本当に雪へとかわりました。



今日は窯を焚いています。



冬の度合いが増して、厳しさが顔をのぞかせてきました。





さっき夜中に、東京の大事な友人から突然の電話。


彼のような人が生きにくい社会なんてまだまだ未熟なんだと思う。

僕も含め、様々なていの「数値化」の網の目からこぼれ落ちるような人間にも
正当な評価、承認が得られる場と機会があらかじめ備わっている、
そういう懐深い世の中がシステムのうえでも人心のうえでも成立している。

そうであってほしい。
そうしなければいけない。



「就職内定率」からはじかれていたり、
「ニート」の枠に押し込められていたり、
そういう数量化や合理化の波の中では埋もれ、“存在しない”とされている個人、
あるいは「ロスジェネ」とかなんとか、“失われた”とされてきた個人集合が
今後の10〜20年を動かしていく、というのはもう火を見るより明らかです。

多少の軋みや流血は避けて通れないだろうけれど
その時代の要請に気付いた者から応えていかねば変わるものも変わらない。


信じて、願って、明日へゆけ。



やっぱり、自分のあしたにわくわくしていたいですからね。
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by aji-kyuu | 2010-12-25 06:29 | 考える | Comments(0)
「政治的無活動状態」にある人へ
正直、こういったことを長々とここに書くのには、躊躇しました。

実際に以下は数日前書いていたもの。


それでも偽りない本心であるから、ちゃんと記しておくべきだと思い直し
ここに投稿します。


ちょっと大袈裟な導入になっちゃったかな?



ーーーーーー



先日の東京滞在では、映画や映像を続けているかつての同志たちの作品を観させてもらったり
脚本やプロットを見聞きしたり、議論したり
日頃とはまた違う筋肉を使うようで、懐かしい疲労感を感じつつ彼らと別れてきました。

お土産にいただいた彼らの新作DVD、まったく趣きの違うもの2本を先頃観賞。




以前ここにも書いたかと思いますが、
僕自身映画映像作りを志してきたものの、
「日常から離れようとするそのもとよりの指向性」への違和感を拭いきれないまま
あるいは素材との距離感や関係性に行き詰まりを覚えて
“やきもの作家”へと転向したわけなのですが、
最近自分のありように多少の危うさを感じ始めています。

自分の、というより自分を含め同業、同種「作家」業を営む多くを見るにつけ危機感を待たずにはいられません。


僕らのような世代は、外へ外への膨張、越境思考の限界とそれの反面にある暗がりを感知して、あるいは体験して、
いつからか外への無関心を装い、内に向き、ローカルな掘り起こしとか孤独をポジティブにとらえた個人主義に傾いているけれど

本当にそれでゆく先が拓くのか。


素材によらず、個人作家は増える一途を辿り
暮らすことそのものや生活道具に衆目が集まっていて
老いも若きも男も女も、家庭にウェートを移しつつある。

今思えば、僕が映画から工芸へ心が移行したのにもそんな背景があったろう。
その選択に間違いはなかったと、今でも断言できるしこれからにも自信はある。

けれど重要なのは、その選択がけしてネガティブなものではなかったということ。
消去法でここにきたわけではないということ。


外=社会での挫折が内=自己を省みるきっかけとなることは当然として
その個が、逃げ込むに十全な場所であろうはずがない。
個は常に社会との関係においてのみ立ち現れるのだから。
世界における「日本」、と同じこと。


「社会なんて関係ない」「生活レベルに影響ない」と吐き捨てようが、
自由へと逃げあがこうが、気づけば仏の掌。
浮き世からは本質的に忌避できない。



確かに、ここ数年だけでも一見すると同期同世代映画人達の撮るものは
テクニカルなところから映画的ダイナミズムを経て、いち個の心象へとミクロに部分にフォーカスが当たるようになった。
社会の猛スピードの拡大路線とは裏腹に見える。

けれど彼らは、映画というシステム(制作であれ上映であれ)においてまず間違いなく社会と関わっていかざるをえない。
「隠遁」ぶって生きること(作ること)は不可能なわけで、
常にそういった拡張と収斂の綱引きに身をさらし、矛盾を抱えつつ、作ることを真剣に考えている。

少なくとも僕から見た限りでは、そう感じられる。



かたや工芸・クラフト。

ドメスティックな現場のみできれいに回りきっているように、見えなくもない。
良いも悪いも個々の生活において判断されるだけ。
もうそれが何百年ものあいだ連綿と続いている、と思われている。

道具という意味では誰にとっても当たり前。
工程は工程でしかなく、形は形。必然のモノ。


でも、

そこに思想はなかったか?
そもそもそこが社会との接点ではなかったか?
道具という意味で。


僕らはいつの頃からか
かたちばかりの、からっぽの道具を作ってしまっていやしないか?





人が、なによりまず人であるために生きる基本へ軸足を据えることは、言うまでもなく必要で
暮らしへの関心は大前提として持っていたい。

でもそれは、結局のところ土台。
柱が建ち、梁が通り、屋根が葺かれるための地盤基礎。

基礎の上に何を建てるか。
そこからが本当の始まり。

地に足着いたいち生活者として、ではどう社会に関わっていくか。



最近そういうことをよく考える。
作り手だからなおのこと。

日々同じ工程の繰り返しの中で、ひたすらに手を動かしていると
自然、思いや考えは削ぎ落とされていって、あたかもひとりでにモノが立ち上がっていくような錯覚を起こすけれど
でき上がったものは道具である以上、どなたかの生活の中で一役を担い、どなたかの人生にささやかながらに関わる。
意図的であれ「手が勝手に‥」であれ、そうなった時点で僕はものを通して人に、社会に関わってしまっている。

仮に見て見ぬ振りが可能だとしても。



責任を持つことがプロフェッショナルの仕事、という認識は皆が持っている。
けれどたいていの場合、その責任の設定範囲はそのモノにおいてのみで留まっている。
それではどうにも不十分だと、僕には思えてなりません。

そのものが使われることで、もっといえば在ることだけで巻き起こすもろもろにも作家は責任を持つべきだ、ということ。

もちろん、「すべてのユーザーのケアを」とか「クレーム対処を」とかそういうことじゃなく
意識のレベル。
外へ出す、その時その瞬間に初めて、社会における自作のもののありようを自覚しておく必要性が生じるのだと思うのです。


社会に身を置きながら、社会に目をつぶっているようでは作り手として心もとない。



ともすると内なる深みへと傾斜しがちな稼業だから、
轆轤への没頭から覚めて、ぞっとすることくらい僕にもあります。
根本はほとんどオタクですから。
ただ、
そういう危うさを自認しているからこそ、僕は時事との接点を意識的に持とうとしていますし
ことあるごとにまとめて新聞を読んだり、その種の書籍も積極的に読むようにしています。
そして常日頃から同業者に限らず、人と議論をする場を求めています。

それが、社会人としての務め。責務。




ローカルに閉じて内向して、小さなファンタジーを演出してみても、それは所詮偽装。

社会のシステムは滞りなく遂行されていきます。


逃げも隠れもできない、社会の一部たる僕らがそれに抗う方法は一つしかありません。
参加意識を持つこと。

こもっては先へ進めない。
とかくそういった方向へ流れてしまいやすい作家業界の性質にも、批判的な目をもって注視していかなければいけない。


自戒を込めつつ、
あらためてそう思う、今日この頃です。
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by aji-kyuu | 2010-11-29 21:37 | 考える | Comments(0)
秋から冬へ
実はここ一週間、ほとんど家を空けっぱなしで
お隣の愛知県は瀬戸市に滞在していました。

といってもいつもの、仲間と運営しているギャラリー関連の仕事のためではなく
2件の「窯焚き」手伝いのため。

いわゆる薪窯の焚き手として。


夏の暑さが引き、冬の寒さが訪れる直前のこの時期、
やきものの業界では窯焚きのシーズン。
薪を燃料にする場合は、外気温や湿度が少なからず影響してくるため本来冬が最も適した季節なのですが
構造上屋外に建てられているために、その寒さには体がかなわない。
ということから、多くの薪窯には春や秋に火が入ります。

昼夜問わず3〜4日火を絶やさないのが一般的なので
大抵は数人がシフトを組んで焚きにあたります。


そんなこんなの事情で、10月にもなるとどこかしこも人手が必要となるわけで‥

普段から「薪窯志向」を公言している僕は、有り難いことに方々から声を掛けていただくことになって
先月末を始めにしてこれまで4件の窯にお誘いいただき、都合がついた2つの窯に参加してきました。


薪窯というものは400年以上前からおよその構造に変化はないものの、
窯のつくりの違いが即、焼き上がりの違いとなることから
それぞれ独自の細かな工夫がされていて、窯によっても作家によっても皆微妙に異なる焚き方をするものです。
だから、まだ自分の“薪”窯というものを持てない僕のような者にはひと焚きひと焚きが本当に勉強になり、経験として蓄積されていきます。

かれこれ5、6基の窯、回数にして10回程度の薪焚きを体感してきたことになるでしょうか。

とりわけ今回、最初から最後まで張り付かせていただいた窯は、
焚いているうちに、自分の理想とする窯に限りなく近いと知れて
収穫が多かった。


いつもお誘いくださる先輩、大先輩方には感謝しきりです。




これまでのそういった経験をそろそろ形にせねば、と
強く思う秋です。




【今後の予定】

益子 秋の陶器市  11/3(水・祝)〜7(日)  栃木県益子町    出店
冬の食卓 展  11/6(土)〜12/6(月)  愛知県瀬戸市 ギャラリーくれい   出展

いずれも詳細は後日。

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by aji-kyuu | 2010-10-27 01:41 | 考える | Comments(0)
考える秋
一週間ぶりの更新となってしまいました。


ここしばらく、「落ちた穴から見えた空」展に、「山の上マーケット」に、「ドキュメントくれい1」にと、
それぞれお越しくださった方々へろくにお礼もできていなかったことが悔やまれます。

ちょっと自分の足下にばかり目がいっているような、
外に向いた活動のはずが半端に内向きな、

自覚していました。

こちらまだまだなようですので、皆様気を長くして見守っていてくださると有り難いです。




といいつつも、
今回の映像企画「ドキュメントくれい」では急造した割に我ながら相応の手応えを感じることができました。

数年ぶりに映像の力を再認できましたし、思いのほか作家の日常と頭の中が“未知”とされていることを、
観手の方々の反応から思い知りました。



一般の、たとえ器好きな方にとっても、作家の裏側は見ようのないところ、
もっといえば見てはいけないところ、と認識されているようです。

それでも、市やフェアへの支持をみるにつけ「見たい」欲求はあるわけで、
知ってか知らずか、それに応えてきていない作家の姿勢というのは見過ごせない。

しゃべることに自信がなければ、文章書くなり、なんなり方法はあるし
テントを出すにもそのちょっとした演出で表現できるだろうし、と。


でも多分方法云々じゃない。
問題は認識のズレ。



ドキュメントのために取材する際、一人の方が「有名人でもないのに観てもらえるのかな」と不安を口にした。
確かに当人にとってはとりたてて言うほどもない当たり前の日々。
交遊も作家かそれに近い立場の人々の圏内だろうから
そこがその方のごく一般。

でも端からすると、その“一般”は特異なものだったりするわけで。


窯業地や作家コミュニティに長く身を置いていると、感覚はどんどん麻痺して
気付かぬうちに世間一般の認識とのズレが生じていく。
誰しも、人である以上逃れようはない。
かといって、その業界内にいる分には不都合はないから、そのズレへの自覚も生まれ得ない。


いわば専門化していったことの弊害。
(特定の業界に対しては“縦割り”という批判を込めた語を当てられるけれど、)
実は異業種間どこにもそのズレによる溝があって、いろいろな活動のダイナミズムをせき止めてしまっている。


溝を埋める、間を繋ぐ、そういった意図を持った人や場を起点にした動きは
各地各方面から起こってはいるけれど、まだまだ足らない。
もっともっと開かなければいけない。

ただし、それは単に間口を広げることとは全然違う。
白いキャンバスに無為に線を描き入れて円をかたどるのじゃなくて、
中心点をすえて、そこからじわりじわりと円形を拡げていくこと
そういうアプローチでの結び合いが必要、と本気で思う。


だから、業界には馴染みない映像を持ち出してみた。
ほんのひとつの手段として。



なんにせよ一歩目はきちんと地を踏みしめました。
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by aji-kyuu | 2010-09-17 22:43 | 考える | Comments(0)
夢のあと
b0156116_21375914.jpgなんだろう。
この時期にしては異様に脂ののったサンマ。
煮るにはちょっと相応しくなかった。

とはいえ、美味しい。




灰〆  五寸鉢



書き込みは久しぶり。
お陰さまで、そのくらいに切れ目なく忙しくさせてもらっています。

とりわけ最近は作陶以外の活動も忙しく、打ち合わせだなんだと家を空けることも少なくない。
右腕ばかり運転焼けしています。

それも偶然か必然か、映像に関わることがぐんと増えているここひと月。


そもそも大学では映像を専攻して、学外でも精力的に映画作りをしていた5年ほど前。

やきものをやっていこうと決めてから、「足を洗う」気なんてなかったものの自然カメラから離れていったわけで、
当時これでもかというくらい使い倒していたビデオカメラを先日数年ぶりに開封。


今、「やきものとその背景を語る」趣旨の映像を絡めたプロジェクトを立てて、9月に瀬戸のギャラリーでの発表を控えているため、
カメラ抱えて取材に動き、懐かしむ間もなく編集を始め、
来月にはその同じギャラリーで企画した撮影ワークショップのためプロの写真家さんと打ち合わせしたり、
友人の映像作家の作品に出演したり、
大学同期の自主企画の脚本を読み込んで意見してみたり、

なんだか、それぞれの現場で時が逆戻りしたような錯覚をおこしてしまい
楽しい反面、ちょっとまいるのも正直なところ。


それでも、そんな状況に置いても当時と現在の僕の思考にいくらの相違もなく、
違和感なくやきものの話とオーバーラップさせて語れるということをあらためて自覚しました。


暮らしは180度変わったといっても過言じゃないけれど、
根っこがほとんどブレていないことに、我ながら驚きます。



懐かしさ半分で気持ちは掻き乱されるし
プットアウトの方法論があまりにも違うために多少の混乱を起こしつつも、
自分を省みるいい機会になっています。
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by aji-kyuu | 2010-07-27 22:15 | 考える | Comments(0)