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光について
b0156116_22303364.jpg大根ステーキ


白土+灰釉  五寸皿



うちの畑のダイコンは、残念ながら育ちが思わしくありません。

土がまだまだ駄目なようで。

今冬は思い切った地質改良すべきなのかな?



さて、先日のラジオニュース。

何かと話題の太陽電池の上半期出荷数がものすごい勢いで伸びている様子。
しかも国内出荷のほとんどが住宅用とのこと。

補助金に加えて、過剰電力の高額買い取り制度が始まったことも大きく働いているようです。


いわれてみれば、電車内から窓外を眺めると
ソーラーパネルに覆われた屋根も珍しくなくなってきました。



時流にあまのじゃくでいるつもりはありませんが、
ふと思う。
なにかおかしい。


誰だったか、
「過去の太陽光エネルギーを消費することは“悪”で、今の太陽光エネルギーを利用するのは“善”なのか?」
と。

これが詭弁的ニュアンスであることは承知の上で
でも、やっぱり太陽光発電のクリーンイメージを鵜呑みにすることはできない。


確かに、環境負荷の極めて少ない発電法であることは間違いないと思う。
かといって「ソーラーパネルを設置しましょう!」でいいのか。

そこに、問題の摺り替えはないか、と。
エコカーしかり。



惜しみない企業努力に依った最新技術で既存の住環境を「交換」していけば地球環境は守れるのか。

これって、現行の生き方そのものの続行ありきでの対策でしかない。

問題の先延ばし、その場しのぎ。
に見える。


この期におよんでもまだ世界は高速回転を止められないということか。
止める気がないのか。



電気を使わない。
車を使わない。

パソコンを使わない。
ものを買わない。


簡単ではない。
おいそれとはできない。
少なくとも、今日明日で乗り換えや設置して済むはなしではけっしてない。

時間がかかる。
実感もともないにくい。


でも本当に今必要なのは、長期的で緩やかな行動。
それは生活そのものと言い換えてもいいと思う。

徐々に徐々に効いていく、血肉化したエコアクション。




そういう僕は
矛盾だらけの日々の中
少しずつ少しずつ、そう信じる方へ歩きます。
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by aji-kyuu | 2009-11-26 23:18 | 考える | Comments(0)
数字が隠している
b0156116_21162943.jpgごぼうって好きです。

歯触りと香り。

牛蒡。
どうやら日本人くらいしか食べないそうです。

さきがけしている時も、なんだか木を削っているみたいで心地よい。
そう思いませんか?


白土+灰釉  五寸鉢


さて、ずっと気になっている数字の話。

先の衆議院選挙でも各党叫んでいましたが、
以前からずっと違和感を持って聞いていた「食料自給率」の数字。

数年前まで30%台とかいわれていた日本の自給率。
去年40台に乗っていくぶん見栄え良くなりましたが、
しかしあまりにも低いと感じませんか?


週に一回スーパーへ通う僕としては
否応なく目に付く産地表示からどう見積もってもその数字は導けない。

実感との大きなズレ。


それもそのはず。

よく知られていることですが、「食料自給率」には常に括弧書きがつきます。
「カロリーベース」とか「熱量ベース」とか。
やっかいなのはこの基準。

供給カロリーの総量(あくまで供給であって需要ではない)にしめる国内産の割合
ということになる。

ということはもとより実際の摂取カロリーとは一致せず、
摂取されない=廃棄される分も含まれ、
かつ、自給率70%台を誇っていた60年代から見れば飛躍的に伸び
現状過剰なはずの現代人の摂取カロリーはかんがみられておらず、
なにより“国内産”の考え方も眉唾。

例えばスーパーではほぼ全量国産の卵。
「重量ベース」の自給率で見ればなんと96%。

でも熱量計算のためにその飼料の自給率やらを重ねると、カロリーベースで10%満たないことになる。

こういったからくりで食肉や乳製品の自給カロリーは異常に低くはじき出されているそうです。


そんな日本も実は「金額ベース」でみれば自給率約70%。
全世界を悠々リードしている、ということにもなる。


なんだこれ?


おかしなおかしな数字のマジック。



当然ながら、高自給率だった60年代に比べ、農業技術は遥かに発展して
農畜産物の生産“量”は大きく伸びているわけで、
これらを分母としている“率”の計算が過去や他地域との実態比べに相応しいはずがないのです。


僕が言うことでもないのですが、
食料自給率を低くアピールして、農業の弱体化を叫び、危機感を煽るものの真意を問いたい。

その危機感を後ろ楯に政権政党が掲げている戸別所得補償制度なんて、みるからにあやしい。




なにはともあれ、どんな意図をもってどんな方法で導かれたか分からない数字なんて
始めからあてにすべきでなく、
むしろそういう「黒い意図」に満ちたものをも含む情報という情報を追いかけることなく
実感との食い違いに気付くことのできるような、
そしてその実感にともなった反証を育てられるような日々を送ることの方が、ずっと大事かと思う。





およその情報は、外から、多くは数字をたずさえてやってくる。
実感はいつも、ここから、数字にも言葉にすらもならないで湧いてくる。



信じるのなら、常にここからの、自分からの感覚
そうでありたいと思うのです。
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by aji-kyuu | 2009-09-17 22:40 | 考える | Comments(0)
文脈と文字記号
もう目前に近付いてきたので、考えずにはいられない話。

知らぬ存ぜぬを決め込むほど利口ではないので。

衆議院選挙。


というよりその前提に関して。


以前からどうも引っ掛かって、あらゆる地方選挙がここ数年盛り上がりを見せてきていてもなお納得いかないことがある。

いつ頃からか、気付けば選挙というものはマニフェストありきのマニフェスト選挙となっている現状。

旧来の“公約”ではなくて、より具体的な政策や数値目標、期限期日を明確に示したものをそう呼ぶそうですが
僕はこれを前面に(もはや全面に?)出すような選挙活動にずっとずっと割り切れなさを感じていました。


政策というものは性質上、その時その場に応じていかようにも変化するもので
それが具体的であればあるほど最善の方策は日々刻々と対応されていくべきものだと思っています。

ゆえに、選挙という行政の前段階において持ち出され、なおかつそれを比べ合わせて選択を迫るなんていうことは、すべきではないし、もとよりまともにできるはずがないと思うのです。


消費税増は誰にとっても望ましくはないし
各種給付の増額はありがたいに決まっている。

どの分野においてでも規制緩和は耳障りよいし
なんであれ既存体制の改革は必要と感ずる。


でも本当に重要なのは、「どんな具体策を講ずるか」よりも
「なぜ、その政策を摂るのか」だと思えてなりません。
政権選択選挙と謳うならなおのこと。



低燃費車で大挙して遠出しても、それはなんだか滑稽なだけ。

いつだってどこだって、政策は点で機能するものでなくて
所々様々な政策と絡み合い
かつ持続的に機能してゆくわけで

だから、ある特異的な点における上っ面の比較、選挙期間中のマニフェスト検討なんて
まるで意味がない。

「バラマキ!」だの「財源は?」だの
隅を隅を、の些末な突つきあいも場違いにしか見えません。



最近はネット上で各党のマニフェスト比較などが盛んですが
そうして見てみても、残念ながら「なぜ?」まで示せているところはほぼないに等しく
マニフェストに対する具体的な質問疑問はいくらでも湧いてくる。
これじゃ比べるどころか本質の理解すらできない。

党によってはハナから政策を示さずに理念に終止しているところもある始末。

いや、むしろそういう理念や姿勢こそまずもって明らかにすべきで
それを材料に僕ら有権者が判断し、後の政府としての具体策を見守る
この流れ、組み上げ方が本来、道理じゃないのか、
とも。



こうなる事情は分からなくもない。

抽象論は多くを惹き付けにくい。
判断を下す実感を持たせにくい。

具体具体、と人は急ぐ。


でも、だからといって大地と大空を無視して、見て見ぬ振りをして
花の美しさばかり思い描いて待っては、咲くものも咲かない。


よりミクロに、小さく、ピンポイントを
てな風潮はいまさら抗いようもないのかもしれないけれど、
もっと人は大きな物語を、文脈を大切にしてもいいのだと思う。
抽象を感じ信じ語ればいい。


少なくともこの国には古くからそういったマクロ視によって形作られたアイデンティティがあるはずです。

グローバルの夢想もいいですが、
いい加減、目覚めなければ。
まずは気付いた者が自ずから。






あああ、もうこんな時間。
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by aji-kyuu | 2009-08-23 00:11 | 考える | Comments(0)
曲がりくねった道の先
岐阜も梅雨明け「したとみられる」。

昨日今日と、痛いくらいの日差し。
こうして夜になっても、冷めつつある空気の下からむっと草が匂いたちます。

これでやっと庭の成長も緩やかになるかな。





さてさて、
しばらく前の友人との会話の中、空想した「新しい農業」。
その後調べていたら、夢想どころかその時描いていたままの形の農業(?)が90年代初頭から研究されていて、
いまや農水省・経産省のバックアップの中、メディア露出も度々されているという。
驚きの実態。



いわゆる“植物工場”

=食用農産物を土地特性や季節・天候に左右されない制御された環境の中で生産する施設。

よく知られたところで言えば、モヤシ栽培のイメージ。
現状、葉もの野菜メインで本格化しているとのこと。


で、実はこの研究による製品がもうすでに販路確保に乗り出すくらいにまで現実化してきているようなのです。
一般販売にはもう少し時間を要するようですが、
外食チェーンを中心にその生産効率、「無農薬で安心」「洗う手間がいらない」「安定しておいしい」といったメリットを高く評価していて、
工場建設・稼働を進めている、云々‥



そういう野菜を口にする日も目と鼻の先、という事実。


信じ難い。


食料自給率が叫ばれて、食料危機が迫る中
この答えは、果たして的を得ているのでしょうか。

日本には放棄された農地がそれこそ五万とあり、
農家の高齢化なんて周知のこと。

そんな中でここ数年、二次産業界の大不振も手伝ってか
若い就農希望者が増加傾向。
雑誌やネット上でも広く就農案内がされ、現場と希望者の橋渡しが活発化してきた今、
すべきはそんなことなのでしょうか。


まず、
時代を読み違えている。
公費を注ぎ込む先は企業論理一辺倒のイノベーションにあらず。



それから、とある農民作家の言葉ですが
農家は野菜や米だけを作っているのではなく、風景を作っているのだ
と。

やや誇張もあるけれど、
そこに尽きると思うのです。

というのも、ほとんどそのスタイルが原始世界と変わらない農業は
僕ら生物としての人間と、その僕らが“借りものの中で生きている”という現実を
食を通して唯一結び付け続けてくれている最重要パートだと思うのです。

自分の生の根幹をあちら側に握られるのはもってのほか。
僕はみすみす許すような気にはなれません。


「このお野菜はね、人間様が作ったんだよ」
そんなこと自分の子供に言いたくありません。

「土さんと水さんとお日さんと、虫さんたちが育ててくれたんだよ」

畑をやっているとそのことが嫌というほど分かります。
人間のできることはたかが知れている。



非合理であろうとなんであろうと
触れてはいけないところ、
這ってでも譲ってはいけないことってあると思うのです。





この件にはもうずっと以前から怒りに似た思いがつのっていて
こういったかたちではとてもじゃないけど言い尽くせません。

でも言わずにはいられない。
そこで、ほんの少し。




そうこうしているうちに、
ニュースでは生物農薬としての「飛ばないテントウムシ」が開発されたという。
「遺伝子をいじったわけではないので、生態系には影響しない。」
本気で言っているのですか。




人間って、恐ろしい。
でも、
こんなんじゃないはずなんです。
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by aji-kyuu | 2009-08-04 23:03 | 考える | Comments(0)
僕を作ってきた作家たち・11  あるいは茶室と車室
b0156116_21424090.jpg茄子やらピーマンやら、じゃが芋やら

ここのところの課題。
季節ものの頂き物を、どう工夫して料理するか。

有り難いことなので、悪くせずに食べきりたい。
とはいえ同じものが続くのもきつい。

で、我が家にはフォークもないのに
パスタ。
最近は庭にハーブがあるので(どれが何かは分からなくなったけども)、プラスαできています。




赤土+白化粧+長石釉  鉢



唐突ですが、

ここしばらく、「おもてなし」ということをよく考えている。

今月、珍しくお客さんの訪問がたて続いて、
自分以外のためにコーヒーを入れたり、お酒のアテを作ってみたり
お昼を用意したり‥

せっかく縁あっていらしてくれるのだから、心地よくすごして欲しいし
気分よく帰ってもらいたい。

と思えど、過ぎた窮屈さもいただけない。


そんな折、そういった「もてなし」をキイワードにしたプロジェクトに関わることになって
一層思考は飛躍していくのです。


つきなみだけど、
一期一会
直心のまじわり



話が逸れるようですが
茶聖、千利休を思います。


史上の人なので、彼に直接的な影響を受けたわけではもちろんないけども、
ある時期、文献を読みあさっていく中で僕のうちにできた“利休”は
間違いなく僕を作る上での重要人物。

アンディー・ウォーホールや村上隆を作家と言ってしまうなら
千利休もまぎれもない大作家。


そんな利休が目指した「もてなし」の空間としての茶室を思う時、
僕はいつも自動車内の空間を繋げます。


茶の湯というセレモニーを媒介に、あらゆる社会的立場をほぼフラットに均された人と人が
ぎりぎりの距離感の中で時間を共する。

リラックスと緊張のはざまで、亭主と客あるいは客同士おそらく会話は弾んだことだろうと思う。




この、ちょっと引いてみれば奇妙な状況、車に誰かと同乗する時に似ていませんか?


目的地に向かう移動手段のはずが、ときにメインになっていたりもするドライブ。

運転席と助手席は、狭い空間の中で異常に近いのにもかかわらず
互いが向かう先を見ているためか、視界がほぼ全面窓ガラスであるためか
不思議なリラックス感もあり、
いつもよりなんだかしゃべれてしまうもの。

そんな経験、誰でもあるはず。


思い起こせば、

それまで二人きりで話すことはもちろん
顔を突き合わせてまともにしゃべることなんかなかった人を、
あまり考えもせず車での移動に付き合わせてしまったある時
当日になって、いやに緊張したものの、
一時間以上だったか、さして意識せずとも会話していた。
(内容は覚えていないし、話が弾んでいたかはともかくも。)

その時、僕の脳裏に利休の二畳半茶室が浮かんだものでした。



アッバス・キアロスタミの映画『10話』も
思えば車のそういう機能を存分に利用した作でした。

ああして、利休もコミュニケーションを図っていたのかな。





にしても、おもてなしって難しいですよね。
単なるサービスじゃあなくて。

こちらが亭主である場合なおのこと。
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by aji-kyuu | 2009-07-30 23:10 | 考える | Comments(0)
補足
江戸時代、諸国を行商して渡り活躍した近江の商人らの精神。


三方よし


「売り手よし、買い手よし」はもちろん、

「世間よし」だそうな。



さすがです。




b0156116_21472984.jpg







 今日間引いた大根。
 辛かったー
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by aji-kyuu | 2009-07-16 21:50 | 考える | Comments(0)
お金の使い方
b0156116_20453333.jpg
スーパーで見つけたまるまると太ったイワシ。

ちょうど食欲も停滞気味のこの頃なので
酢で煮て、冷やして、畑の恵みたちと合わせてみました。





赤土+白化粧+長石釉  片口碗



ずっと以前から、思いはすれど上手く言葉に結べなかった事柄があったのだけれど、
先日読んでいた本にピタリくる文言に出逢った。



かねてから“安い”ものを選ぶことにすんなり飲み下せない違和感を覚えていた。

“安い”の裏側にある諸々を考えると、申し訳なさが首をもたげる。


とある本の中で
「経済で買う」か「思想で買う」か
そう問われた時、僕は即答した。

経済的余裕を得た上での選択、なんていう前置きは無視して。

現実、経済力はまるで無い自分ではあるけれど
極力「思想」で買おうという意識は働いているようで、
端からすれば「なんでそこにカネかける?」なんてこともしばしば。


現行のシステムからしたら、そんな基軸でものを買うこと自体
錯誤的で、“得”をうるという意味において時流を逸してるのかもしれないけれど

本当はそうすべきだ、と多分誰もが気付いている。


僕は思想で買う。
思いと想いを買いたい。

翻って

僕は思想で作り、思想で売る。


だから
お客さんが買うと決めてくれた時点、お金の介在する以前に、
僕のもの作りは完遂しているのだと思う。



どうやらこれが意外と理想論に終わらないようなのです。
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by aji-kyuu | 2009-07-14 21:21 | 考える | Comments(0)
ここ一週間くらいのうちに“数年ぶりの思い掛けない再会”と“起こるべくして起こった再会”とがあって
とにかくもう心が揺れた。

人と人の繋がりの不思議を思う。

出合い頭のようでいて、多分縁により結ばれている僕ら。



以前から一転、人と会わない生活となり
その一方、器を自ら手売りするようにもなり

出会いと繋がりの妙を余計意識するようになった。



僕にとっていつまで経っても困難で恐怖をともなうコミュニケーションの
脆く儚くも、確かなきらめき。

その小さな小さな光が少しずつ少しずつ、前方を照らしてくれるのだという実感。


沢山の光の束を掲げてゆくのは下手くそだけど、
一つまた一つをそうっと両の手に包んで、とつとつ歩けたらいいな。
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by aji-kyuu | 2009-07-05 23:36 | 考える | Comments(0)
なぜ隠す?
しばらく前の話。

車中のラジオから流れていたニュースをなんとなしに聞いていて
その思いがけない内容に耳を疑った。

— 政府が2015年の実用化を目指し、家電製品のプラグを無くそうと目論んでいる。—
とか。

ボリュームを上げたものの、そのニュースは繰り返されることなく
といって、他の方面からの情報もない。

まさかそんなこと‥

聞き違いか?
夢でもみてたか?


いいえ事実でした。

家電:電源ワイヤレス化、総務省が検討に本腰


なんで?どうして?
そんなに床這うコードって邪魔でしたっけ?


電柱を地中化し始めたあたりから、どうもおかしいと思っていた。

どうやら、なんとしてもエネルギーの供給源を人の目に触れぬようにしたいらしい。

かまぼこに魚を隠した様に、アスファルトで土を隠した様に。
自動車飽和社会をエコカーでごまかすかの様に。


斜に読みすぎなのかな。


生活が恐ろしい方へどんどんどんどん加速している。
怪物はみるみる肥大していく。
そう思わずにはいられない。

気付けば呑まれて腹の中。
そんなの嫌だ。
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by aji-kyuu | 2009-06-23 21:57 | 考える | Comments(0)
先日からのつづきで、
ある程度の専門性をもつ職にたずさわる者、とりわけ個人単位で活動している者を“〜家”といったりする。
それぞれの業界の構図が傍目から見るとほぼ自壊した今日でも
いまだ権威づいた響きの残るこれらの言葉が僕は嫌いです。(便宜上使わざるを得ない時もあるけれど。)

もっぱらひとつのことに打ち込む。
それは確かに大切な姿勢だとは思いますし
まず、あらゆる意味で合理的。
なんらかひとつのことにおいて専化・特化させることが、市場での武器になることは間違いないでしょう。

けれど、それは同時にひとつのこと以外を諦めることで
もっといえば、ひとつ以外の多くを切り捨て、他へ投げてしまうこと。

市場を、あるいは経済活動を成立成長させるために
もう何十年もかけて個々人が知らず知らず追い込まれてきたこの狭く暗い道を
疑うことすらできず、俯き加減にひたすら歩く。

そんなこと、僕はできないのです。



詩や童話、散文から教育者、農業指導者。
様々な方法で「考えた」人、宮澤賢治は当時のバリ島民の生き方に理想をみていたそうです。
というのもバリの庶民は昼間、田畑を耕す農家であり
夕方、人によっては宗教家となり医師となり
夜ともなると、ことあるごとにガムラン演奏をする芸術家となる。

すべて一人の内に境目なくあって、人々は皆それらの連関の中にいる。

そのあり方を目指し、教職を辞した宮澤賢治は羅須地人協会という拠点を作る。
農家の青年を集め、肥料の調合を教えたり楽団を結成したり、ただ語り合ったり。


そうなんです。
実のところバリでなくとも、賢治がやらなくとも、もとより田舎の村ではそういった生き方がごく当たり前にあったわけで。

どこにでもありふれていたはずのそのスタンスが、生きるにいかに強いか。
現状を省みれば明らかです。


でもって、その中心には田畑山川のある土地に根付いた農があるのだろう、と。
もとよりこの農という業は恐ろしいほど多岐に渡った知識と技術、勘と経験が要るものです。


宮澤賢治はしばしば農業と芸術の結びつきを説いていたそうですが、
それもそのはず。
農業で“作られる”風景、田んぼの組み方や整備された畦なんかは
ときに息を呑むくらい美しかったり。

あれらが古くからの日本のお百姓さんたちの無作為に因るとは
僕には到底考えられません。




話、逸れました。


ともあれ今日は蒸し暑く、
とうとう到来、梅雨の日々。


b0156116_211951100.jpg
            赤土+白化粧+長石釉  片口碗   茄子と小松菜の揚げびたし
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by aji-kyuu | 2009-06-21 22:49 | 考える | Comments(0)