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僕を作ってきた作家たち・9
b0156116_21452882.jpgやっと、部屋の床がべたつくような
梅雨らしい濃い湿気が室内にも充満するようになりました。

特に好きではないのだけれど、こうでなくちゃと。





僕が影響を受けてきた作家。
今回はこれまでとはちょこっと違う域での話。

現在の自分の基盤がいびつながらもできつつあった、
そんな頃。


とりたてて“師”を持ってこなかった僕にとって、あえてそう呼ぶとしたら
次の二人を迷わずあげたい。


中崎透(現代美術)
卯野和宏(絵画)


ともに大学の先輩。
とはいえ僕が入った時すでにどちらも院生。
歳だって相応に離れていた。

それでもひょんな縁で懇意にしてもらい、
飯に行くのはもちろん、炬燵囲んで鍋つついたり。
時には夜通しでプロジェクトを手伝ったり、
はたまた酒を挟んでの議論に付き合ってもらったり。


かたや、あらゆるメディアを横断的に使って社会に切り込む現代美術を。
かたや、ごくパーソナルな事柄を具象に託す丹念な油絵を。
傍目には対極にいるこの二人。

でも当時の僕にしてみれば、
形式との距離のおき方
そしてなにより、揺るぎない「作家」という姿勢において
二人は等しく仰ぎ見る“師”だった。


作るもののみならず、彼らの人となりにじかに関われたあの数年は
思い返すとそれはもう贅沢な時間だったと思う。


ともするといまだ
二人の間を振り子して、あるいは二人に引き裂かれるようにして
僕はあるのかもしれない。




そして嬉しいのは、
二人共にそれぞれの方向でたゆまず走り続けていて
変わらぬ背中を見せてくれていること。

透さんは遊戯室Nadegata Instant Party等々、場所を変え形を変え精力的に動き続けているし
卯野さんは明後日から渋谷東急百貨店で個展だそうで、その多忙がうかがえる。



あらためて、我が身の恵まれた出会いに感謝です。
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by aji-kyuu | 2009-06-30 23:13 | 作る | Comments(0)
なぜ隠す?
しばらく前の話。

車中のラジオから流れていたニュースをなんとなしに聞いていて
その思いがけない内容に耳を疑った。

— 政府が2015年の実用化を目指し、家電製品のプラグを無くそうと目論んでいる。—
とか。

ボリュームを上げたものの、そのニュースは繰り返されることなく
といって、他の方面からの情報もない。

まさかそんなこと‥

聞き違いか?
夢でもみてたか?


いいえ事実でした。

家電:電源ワイヤレス化、総務省が検討に本腰


なんで?どうして?
そんなに床這うコードって邪魔でしたっけ?


電柱を地中化し始めたあたりから、どうもおかしいと思っていた。

どうやら、なんとしてもエネルギーの供給源を人の目に触れぬようにしたいらしい。

かまぼこに魚を隠した様に、アスファルトで土を隠した様に。
自動車飽和社会をエコカーでごまかすかの様に。


斜に読みすぎなのかな。


生活が恐ろしい方へどんどんどんどん加速している。
怪物はみるみる肥大していく。
そう思わずにはいられない。

気付けば呑まれて腹の中。
そんなの嫌だ。
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by aji-kyuu | 2009-06-23 21:57 | 考える | Comments(0)
先日からのつづきで、
ある程度の専門性をもつ職にたずさわる者、とりわけ個人単位で活動している者を“〜家”といったりする。
それぞれの業界の構図が傍目から見るとほぼ自壊した今日でも
いまだ権威づいた響きの残るこれらの言葉が僕は嫌いです。(便宜上使わざるを得ない時もあるけれど。)

もっぱらひとつのことに打ち込む。
それは確かに大切な姿勢だとは思いますし
まず、あらゆる意味で合理的。
なんらかひとつのことにおいて専化・特化させることが、市場での武器になることは間違いないでしょう。

けれど、それは同時にひとつのこと以外を諦めることで
もっといえば、ひとつ以外の多くを切り捨て、他へ投げてしまうこと。

市場を、あるいは経済活動を成立成長させるために
もう何十年もかけて個々人が知らず知らず追い込まれてきたこの狭く暗い道を
疑うことすらできず、俯き加減にひたすら歩く。

そんなこと、僕はできないのです。



詩や童話、散文から教育者、農業指導者。
様々な方法で「考えた」人、宮澤賢治は当時のバリ島民の生き方に理想をみていたそうです。
というのもバリの庶民は昼間、田畑を耕す農家であり
夕方、人によっては宗教家となり医師となり
夜ともなると、ことあるごとにガムラン演奏をする芸術家となる。

すべて一人の内に境目なくあって、人々は皆それらの連関の中にいる。

そのあり方を目指し、教職を辞した宮澤賢治は羅須地人協会という拠点を作る。
農家の青年を集め、肥料の調合を教えたり楽団を結成したり、ただ語り合ったり。


そうなんです。
実のところバリでなくとも、賢治がやらなくとも、もとより田舎の村ではそういった生き方がごく当たり前にあったわけで。

どこにでもありふれていたはずのそのスタンスが、生きるにいかに強いか。
現状を省みれば明らかです。


でもって、その中心には田畑山川のある土地に根付いた農があるのだろう、と。
もとよりこの農という業は恐ろしいほど多岐に渡った知識と技術、勘と経験が要るものです。


宮澤賢治はしばしば農業と芸術の結びつきを説いていたそうですが、
それもそのはず。
農業で“作られる”風景、田んぼの組み方や整備された畦なんかは
ときに息を呑むくらい美しかったり。

あれらが古くからの日本のお百姓さんたちの無作為に因るとは
僕には到底考えられません。




話、逸れました。


ともあれ今日は蒸し暑く、
とうとう到来、梅雨の日々。


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            赤土+白化粧+長石釉  片口碗   茄子と小松菜の揚げびたし
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by aji-kyuu | 2009-06-21 22:49 | 考える | Comments(0)
僕をを作ってきた作家達・8
b0156116_2056564.jpg僕の住むまちは、日本でも有数の大河木曽川、長良川、揖斐川の三川がぶつかる地点から
いくらか上流へ遡ったところにある。

地史にはうといけれど、社会科で習った知識と住んでいて見聞きすることから
この地域が如何に河に悩まされ河に救われてきたか
というのは容易に察せられる風景。


ここでは、そんな堤防沿いに巡らせた道路が
人々の足としてかなり重要な役割を担っていたりする。

僕もことある毎にそれら堤防道路を走り
朝昼晩その大きな自然を目の当たりにして
その度、こんな近くで河を感じて生きてきたことはなかったなあ、と思う。

河っていい。



その河に対するイメージをモチーフにして書かれたもので
やはり大学生の頃に出会い、なにか「ゆるされた」というような感慨に浸してくれた小説がある。
堀江敏幸「河岸忘日抄」。

どこかの街の河岸に繋留された船上で生活する男の日々つれづれ。

一定の方向へ流れ続ける河の上にあって
しかも流れるためにあるはずの船に居ながら
あえて、ただよう。

揺れる、たゆたうことを緩やかに受け入れるための物語。


仏文学者でもあるこの作家は、それでも合理性とか論理性とかもっといえばいわゆるストーリーテリングそれ自体を非肯定(否定ではなくて)しているようで、
ああだこうだと語りながら、どこか輪郭をぼやかしたままに結ぶ。結ぶ“ふり”をする。

その語り口が当時の僕の映画作りの指向性に極めて近かったこともあって、
即、読み散らし。
エッセイも含め(これらも面白い)これまで刊行されたものはたいてい読んでいて
なお本屋に行くたび毎回新刊をチェックする作家の一人です。



決めろ決めろと言われてきて、
どこのなんだと問われてきた。

それに対する疑問符が、いつも浮かんでは消える。

迷い続けたい。
それが贅沢なことだとも知っているけれど。




今日はひとまずこの辺で。
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by aji-kyuu | 2009-06-17 22:23 | 読む | Comments(0)
作る暮らし
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蛙の輪唱が随分と威勢良くなってきました。

気付けば、周辺の田んぼに水が引かれ始めています。

麦が黄金色を通り越して赤々となびく今時期、その隣では田植えが近付いているようで。


岐阜県のブランド米「ハツシモ」は秋も深まり初霜が降りる頃、ようやく刈り穫るという晩生種。
他から遅れることひと月ほど。
今日寄った農協の直売所脇では苗がぎっしりとスタンバイしていました。






ここしばらく米作りを始めとした農業ルポのような本を読んでいるので、リン酸やら窒素やら、ミニマムアクセスなんだかんだ‥

頭でっかちになって、よろしくない。

それでも
ふと顔を上げると田畑や農家さんの生活が目の前に広がっているこの環境に身を置くと、
なにはともあれ知りたい、という思いが。


知れば知るほど
手でものを作ることってなんであれ同じなんだと再認する。

食物、でさえも。
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by aji-kyuu | 2009-06-08 22:00 | その他 | Comments(0)
遠くなり近くなる水音のひとり
先週末、用事で長野に出掛けていた。
ちょうど信州善光寺の“数え年で七年に一度の盛儀”という「善光寺前立本尊御開帳」だとかで
えらく混みあった門前通り沿い、瓦葺き白壁の旧きを模した商店建築が多い中
フラットで非装飾な正面ガラス張りの北野カルチュラルセンターにてひっそりと開催されていた
「山頭火の善光寺みち展」にふらり立ち寄ってみた。

種田山頭火。自由律俳人。漂泊の人。
山頭火と、彼がある時期旅の途上で訪ね歩いた信州の俳句仲間との交流を紹介する
といった内容。

広すぎず狭すぎず、
ひと気はさっぱりなもののきりりと締まった展示空間。
胸が騒ぐ。


案の定、そこに掛けられた幾幅かの自筆の句書にあっという間
がっちり掴まれてしまった。


控えめで優れた軸装。
書の剛胆さと研がれたセンス。
そして、句のぬるくも澄んだあじわい。


— 飲みたい水が音たてていた —




知っていた。
確かに国語で習った名です。
でも

またしても出合い頭の衝突。
しばらくはこの作家に委ねてみたい。連れられたい。

ひとまず、よい句集を探そうと思う。
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by aji-kyuu | 2009-06-01 22:52 | 観る | Comments(0)