<   2009年 08月 ( 6 )   > この月の画像一覧
妙香園初日。
b0156116_21184431.jpg本日、名古屋・栄での展示会初日でした。 詳細

久々の電車通い、街のつくり、人との会話に心身共に疲れてしまいました。
改めて、これを日常とする会社員の方々に尊敬の念。

僕にそれができたのだろうか。

ともあれ、
そんな中にわざわざ足を運んで下さった皆様、
どうもありがとうございました。


さて、写真はうちの枝豆。

赤土+白化粧+長石釉   豆碗(!)


結局ひと房穫りまして、塩茹で。

明日の昼飯の握りめし用に、とサヤから出したら
なんだかきれいでしたので。


今日お越し頂いたお客さん
以前他でこの器をお求め頂いたようで、
「お料理の味見用にちょうど良くて」と。

こちらから使い方を紹介するのもいいけれど、
そうして使い手側がその方の生活に合ったかたちで取り入れてくださっているというのは
とてもとても嬉しい。

豆碗であれど、そういった意味での“大きな器”でありたいと思うのです。


「どう使うの?」というお客さんが多い中、
そういう柔軟な姿勢の使い手さんによって自分の作るものの世界がぐんっと広がること、
それが工芸(生活道具)作家の醍醐味のように感じます。

もちろん使うものである限り、使い方のイメージなしに作ることは不可能なのですが
そのイメージを裏切り、突き破り、押し拡げる特権を使い手さんには楽しんでいただきたい。



どう使ってもらっているのか、その空想は僕らの次への励みだったりします。
[PR]
by aji-kyuu | 2009-08-27 21:54 | 案内 | Comments(2)
育つ、という変化
b0156116_2349196.jpgこの器、口元にヒビが入ったため自分使いしているもの。


コーヒーにお茶に焼酎に
ほとんど毎日ともにしています。



定番の
赤土+白化粧+長石釉  小碗

なのですが
使い込むうちにこうした姿になりました。

“白”は部分的に残るものの全体に茶系のクリーム色といいますか。
釉貫入にも渋が入り、説明し難い状態です。


実は陶器というもの、磁器とは異なりどこのどのような仕事のものでも必ず大なり小なり吸水性があります。
胎土には目に見えない細かな気孔があり、釉薬にもほとんどの場合貫入や気泡があるものです。
そのおかげで、熱いものを直に手に伝えにくく、同時に中身を冷ましにくい。
逆もまたしかり、です。


そしてこの性質があるゆえ、陶器は何百年もの時を越えるのです。


意外に感じられるかもしれませんが、陶器というものが最ももろいのは焼き上がった直後。
お店なりで売られているその時です。

というのも、先述の吸気吸水性がある器は使われる度、否応なくなにかしらの水分なり油分なりをその内に取り込んでしまいます。
洗ってもすっかり拭いきれないそれらは、乾燥し内部に固着。
そして次回使われる時、また水分油分に触れてそれらを吸い込み‥

そうしたことを繰り返していくうち、陶器は胎内の気孔を半固体でぎっちり埋めていくのです。


こういった見えないところでの変化が時に水漏れを止めたり、落としても割れにくくなったり、電子レンジに耐えるようになったり、と器を強くするのです。


この強化を、その表情の変化というかたちで教えてくれる陶器も少なからずあります。
例えばそれが、写真の器。

ヒビの影響か景色の変化は恐ろしく早く使い込まれたかのような佇まいになったのですが、
そのおかげかいまだ口元の欠けすらありません。

もちろん、結構ぞんざいな扱いを受けているにも関わらず。


このような陶磁器の経年変化する様を古い茶人や数寄者達は「育つ」と言って楽しみ、
よく育った器を高く評価し、
懸命に「育てる」などして愛玩しました。

それに大枚をはたくかどうかは別にして、
確かに、自分が使うことで日に日に変化する道具には自ずから愛着がわくものです。

当然、使う頻度、用途によっても違った育ち方をするわけですし、先の予想もつかない。
となれば、それこそ一つの器の中に時間のロマンまでが盛り込まれる。



と、まあこういった性質とそれによる内や外の変化があったからこそ、日本では数えきれない古い雑器が残り、掘り出され「骨董」に化けているともいえるのです。


そんな
素材の持つそれぞれの土地の理にかなった性質は、陶器においてだけでなく
日本の他の分野でもかねてから巧みに活かされ、生活に当たり前の呈で溶け込んでいたはずなのです。

分かりやすいところでいえば、家。
木造家屋の柱、とりわけ古民家と呼ばれる時代のものは
四季があり湿気の多い気候や囲炉裏という様式を逆手に取って、時が経つにつれより丈夫にかつ柔軟に屋根を支える仕組みとなっています。



僕らは生まれ出たときから、ぐるり周辺をプラスティックといういかがわしい素材に囲まれてきました。
そのためか「ものの状態は基本的に一定で、変化したとしたらそれは劣化」という観念を知らず知らず持たされているように思います。
事実プラスティックはすぐ弱るし、金属も瞬く間に錆び落ちる。

それらによる製品が何百年後に伝い残るとは考えにくい。


でも実際に飛鳥時代の木簡は発掘されたし、埴輪も掘り出された。
自然の理にかなったものは、
変化することで残るのです。

僕らヒトも例外じゃない。






話が壮大になり過ぎました。


が、何百年残る云々は置いておいても

僕自身は、理に則った「変化」を受け止め取り込む明確な意図をもって陶器を作っています。

「育つ」ことのない器は作っていません。作れません。

むしろ「育つ」前提で器のあしたをも想像しつつ手に取っていただけるなら、
作り手としてそれ以上の幸せはありません。


大袈裟に聞こえるかもしれませんが

ぜひとも、この先の人生の伴走者ひとつとの幸福な出会いを求めて、
展示会にお店に、クラフトフェアなどにお出掛けください。

日本の本物の道具はきっと、誰かの物語を受け止める余白を残して待っていてくれるはずです。




最後に27日(木)からの展示会の詳細はこちらです。

よろしくお願いします。
[PR]
by aji-kyuu | 2009-08-24 23:49 | その他 | Comments(0)
文脈と文字記号
もう目前に近付いてきたので、考えずにはいられない話。

知らぬ存ぜぬを決め込むほど利口ではないので。

衆議院選挙。


というよりその前提に関して。


以前からどうも引っ掛かって、あらゆる地方選挙がここ数年盛り上がりを見せてきていてもなお納得いかないことがある。

いつ頃からか、気付けば選挙というものはマニフェストありきのマニフェスト選挙となっている現状。

旧来の“公約”ではなくて、より具体的な政策や数値目標、期限期日を明確に示したものをそう呼ぶそうですが
僕はこれを前面に(もはや全面に?)出すような選挙活動にずっとずっと割り切れなさを感じていました。


政策というものは性質上、その時その場に応じていかようにも変化するもので
それが具体的であればあるほど最善の方策は日々刻々と対応されていくべきものだと思っています。

ゆえに、選挙という行政の前段階において持ち出され、なおかつそれを比べ合わせて選択を迫るなんていうことは、すべきではないし、もとよりまともにできるはずがないと思うのです。


消費税増は誰にとっても望ましくはないし
各種給付の増額はありがたいに決まっている。

どの分野においてでも規制緩和は耳障りよいし
なんであれ既存体制の改革は必要と感ずる。


でも本当に重要なのは、「どんな具体策を講ずるか」よりも
「なぜ、その政策を摂るのか」だと思えてなりません。
政権選択選挙と謳うならなおのこと。



低燃費車で大挙して遠出しても、それはなんだか滑稽なだけ。

いつだってどこだって、政策は点で機能するものでなくて
所々様々な政策と絡み合い
かつ持続的に機能してゆくわけで

だから、ある特異的な点における上っ面の比較、選挙期間中のマニフェスト検討なんて
まるで意味がない。

「バラマキ!」だの「財源は?」だの
隅を隅を、の些末な突つきあいも場違いにしか見えません。



最近はネット上で各党のマニフェスト比較などが盛んですが
そうして見てみても、残念ながら「なぜ?」まで示せているところはほぼないに等しく
マニフェストに対する具体的な質問疑問はいくらでも湧いてくる。
これじゃ比べるどころか本質の理解すらできない。

党によってはハナから政策を示さずに理念に終止しているところもある始末。

いや、むしろそういう理念や姿勢こそまずもって明らかにすべきで
それを材料に僕ら有権者が判断し、後の政府としての具体策を見守る
この流れ、組み上げ方が本来、道理じゃないのか、
とも。



こうなる事情は分からなくもない。

抽象論は多くを惹き付けにくい。
判断を下す実感を持たせにくい。

具体具体、と人は急ぐ。


でも、だからといって大地と大空を無視して、見て見ぬ振りをして
花の美しさばかり思い描いて待っては、咲くものも咲かない。


よりミクロに、小さく、ピンポイントを
てな風潮はいまさら抗いようもないのかもしれないけれど、
もっと人は大きな物語を、文脈を大切にしてもいいのだと思う。
抽象を感じ信じ語ればいい。


少なくともこの国には古くからそういったマクロ視によって形作られたアイデンティティがあるはずです。

グローバルの夢想もいいですが、
いい加減、目覚めなければ。
まずは気付いた者が自ずから。






あああ、もうこんな時間。
[PR]
by aji-kyuu | 2009-08-23 00:11 | 考える | Comments(0)
初採りと幸せな迷い
b0156116_21132822.jpg蒔くのが遅かったニガウリもついに。

隣のダイズや雑草につかみかかってなお
伸びようと勢いづくゴーヤに
最初の子供を見つけてから一週間。
急いではかわいそうだと見守り続け、
ようやく「もういいよ」と。

青くさくてボリボリとした歯応え。
苦みもふくめ、好きな野菜のひとつ。

スーパーのものよりか小さいものの、
炒めても主張を崩さない健やかなヤツでした。


まだまだ弟分が続々ぶら下がっていたので、
これからは“どう活かすか”が悩みとなりそう。



さてさて
ゴーヤ、ニガウリといえばチャンプルー、ごっちゃ炒め。
豆腐や卵や豚肉なんかと。

これはもちろん良くやりますが、
ほかに
鰹を効かせたおひたし(の、ようなもの)とかも我が家の定番。
姿形に相応しいごろりとした味が気に入っています。


そんな今回はスペシャルな味噌で炒めてみました。b0156116_21454731.jpg


赤味噌は赤味噌でも、
豆100%の純豆味噌。

これこそが
お盆に母方のいなかへ顔を出しにいった際、
祖母が持たせてくれた手製の味噌。
僕が手本にしたい日本一美味しい味噌。


これが手前味噌な話なんかではなくて本当にいい味噌なのです。

味噌汁にはもとより、
大豆が形を残しているので炒め物の調味にも最適。
例えばこれで麻婆豆腐を作ると、まるで別格。

風味が深くて、コクと酸味が絶妙なのです。(なんだかコーヒー豆を評した文句のようですが。)



これを自分の手で‥

と夢見て蒔いたダイズももう房を充分に抱えて、「おーい、おーい」と声を上げ始めてしばらく。

畑へ出向くたびに
えだまめえだまめえだまめ
という誘惑と闘いながら、いまのところノータッチできています。


でも、
明日の晩飯の食材が心もとないし
まったくの無視も申し訳ないし


ひと株くらい、刈ってしまおうかなあ。
[PR]
by aji-kyuu | 2009-08-21 22:13 | 食べる | Comments(0)
グループ展のお知らせ。
b0156116_21291690.jpg
布とうつわ 展


2009年8月27日(木)〜9月1日(火)
AM10:00〜PM5:00

妙香園画廊3・4階


陶芸  清澤 豪
    正木 渉
    伊藤 準
    安達 健

染織  清澤 美奈






愛知県名古屋市中区栄での展示会に出展します。

愛知を拠点に活動する先輩作家さん方と。


お茶で有名な妙香園さんで開催ということで、日常も含めたお茶やそれにまつわるうつわと布を展示いたします。




僕はほぼ常時在廊しますし、他の作家さんも常にどなたかがいらっしゃる予定です。
それぞれに特徴ある仕事をしているので、全体としても面白い展示会になるのじゃないかと
自分自身楽しみな企画。


かくいう僕も明後日、搬入前最後の窯に火を入れます。
これまで発表していなかった新作を中心に並べるつもりなので、毎日目一杯に制作中。

きっと見応えあるものにできると思います。
お近くの方は、栄にお買い物がてらでも、是非お越し下さい。


よろしくお願いします。
[PR]
by aji-kyuu | 2009-08-16 22:01 | 案内 | Comments(0)
曲がりくねった道の先
岐阜も梅雨明け「したとみられる」。

昨日今日と、痛いくらいの日差し。
こうして夜になっても、冷めつつある空気の下からむっと草が匂いたちます。

これでやっと庭の成長も緩やかになるかな。





さてさて、
しばらく前の友人との会話の中、空想した「新しい農業」。
その後調べていたら、夢想どころかその時描いていたままの形の農業(?)が90年代初頭から研究されていて、
いまや農水省・経産省のバックアップの中、メディア露出も度々されているという。
驚きの実態。



いわゆる“植物工場”

=食用農産物を土地特性や季節・天候に左右されない制御された環境の中で生産する施設。

よく知られたところで言えば、モヤシ栽培のイメージ。
現状、葉もの野菜メインで本格化しているとのこと。


で、実はこの研究による製品がもうすでに販路確保に乗り出すくらいにまで現実化してきているようなのです。
一般販売にはもう少し時間を要するようですが、
外食チェーンを中心にその生産効率、「無農薬で安心」「洗う手間がいらない」「安定しておいしい」といったメリットを高く評価していて、
工場建設・稼働を進めている、云々‥



そういう野菜を口にする日も目と鼻の先、という事実。


信じ難い。


食料自給率が叫ばれて、食料危機が迫る中
この答えは、果たして的を得ているのでしょうか。

日本には放棄された農地がそれこそ五万とあり、
農家の高齢化なんて周知のこと。

そんな中でここ数年、二次産業界の大不振も手伝ってか
若い就農希望者が増加傾向。
雑誌やネット上でも広く就農案内がされ、現場と希望者の橋渡しが活発化してきた今、
すべきはそんなことなのでしょうか。


まず、
時代を読み違えている。
公費を注ぎ込む先は企業論理一辺倒のイノベーションにあらず。



それから、とある農民作家の言葉ですが
農家は野菜や米だけを作っているのではなく、風景を作っているのだ
と。

やや誇張もあるけれど、
そこに尽きると思うのです。

というのも、ほとんどそのスタイルが原始世界と変わらない農業は
僕ら生物としての人間と、その僕らが“借りものの中で生きている”という現実を
食を通して唯一結び付け続けてくれている最重要パートだと思うのです。

自分の生の根幹をあちら側に握られるのはもってのほか。
僕はみすみす許すような気にはなれません。


「このお野菜はね、人間様が作ったんだよ」
そんなこと自分の子供に言いたくありません。

「土さんと水さんとお日さんと、虫さんたちが育ててくれたんだよ」

畑をやっているとそのことが嫌というほど分かります。
人間のできることはたかが知れている。



非合理であろうとなんであろうと
触れてはいけないところ、
這ってでも譲ってはいけないことってあると思うのです。





この件にはもうずっと以前から怒りに似た思いがつのっていて
こういったかたちではとてもじゃないけど言い尽くせません。

でも言わずにはいられない。
そこで、ほんの少し。




そうこうしているうちに、
ニュースでは生物農薬としての「飛ばないテントウムシ」が開発されたという。
「遺伝子をいじったわけではないので、生態系には影響しない。」
本気で言っているのですか。




人間って、恐ろしい。
でも、
こんなんじゃないはずなんです。
[PR]
by aji-kyuu | 2009-08-04 23:03 | 考える | Comments(0)