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ブツブツと
b0156116_21312727.jpg報告が遅れました。
先の26日火曜をもってギャラリーくれいでの
「温故」展が終了いたしました。

いらして下さった方々、本当にありがとうございました。

思い切った挑戦をした甲斐もあって、
賛否両論多くのご意見ご感想をいただき
勉強になる機会とできたことが現状の僕にとって何よりでした。

ひと足ごとにやるべきことが明瞭になってきます。


頑張らねば。




さて話かわって‥

先日久しぶりに映画DVDを観ました。
とりわけ強く「観たい!」というわけでもなかったものの、
『めがね』借りてきて。


まだ、というか今だからこそ(?)こういう映画の技法による映画がきちんと観てもらえるのだな

と映画を志していた者としてはちょっと嬉しく思ったりします。

フルサイズのロングショット、尺の長いカットのゆったりとしたテンポでの繋ぎ。
音の扱い、、、


そんなこんなを考えながらも、印象に残るのはサクラさんの「氷屋」。
毎春どこからともなく浜辺へ来て、かき氷を売る女性。
しかし彼女はいつもお客から代金をいただかない。

美味しいかき氷を出す代わりに、お客はそれぞれのできる何かで「お返し」をする。

小さな子供は手作りの紙細工を
氷業者はかき氷の材料を
ユウジらはマンドリンの演奏を



ここ数年、物々交換の可能性についてよくよく考えています。


世界は、
小集団が外へと拡がりを求める過程で貨幣を発明。
それを媒介させた価格価値をモノに与え
そして、それでもって縛り付けた。

結果
値段はモノの単なるパッケージとして認識されて

いつからか“安い”は良くて、同じものなら安ければ安いだけ嬉しくなった。

はたまた、“高い”モノはいいもので“安い”モノは下等品とも。



でも、そもそも
お金を払う行為そのものは、そのモノとそのモノがそこへと至る過程・背景(あるいは文脈)をも含めたすべてに対する「感謝」ではなかったのか。


同じものを安く買うということは、
その背景の一部分を無視する、切り捨ててしまうということではないのか。

高い安いは良い悪いではない。
モノの後ろに良いも悪いもないのだから。



モノより先に値札へ目がいく昨今。

『めがね』のサクラさんたちのやりとりのような、一種の物々交換は
物と物が抽象化されることなく渡り合うために、
つまり価格が付けられていないために、自然目はモノへゆき
モノを通り越え、その過程・背景へとたどり着く。

真剣に小豆を煮ていたり
懸命に楽器の練習をしていたり
時に、そういう姿がモノの本当の価値を表したりすると思うのです。


ベネズエラのチャベス大統領のように物々交換を社会制度化することは望みませんが、
このいびつになった貨幣経済を少なくともまともな軌道に修正しうる気付け薬としての可能性が
物々交換にはあるのじゃないか、と本気で考えています。


お金を介さないやりかた。

お金はあまりに恐ろしい。



尻切れですが、長くなり過ぎるのでこの辺で。
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by aji-kyuu | 2010-01-28 22:58 | 考える | Comments(0)
「温故」会期後半
b0156116_23553838.jpg愛知県瀬戸市のギャラリー くれいで開催中のグループ展
「温故」会期の後半が始まっています。





その展示会に出展している灰白の平碗と赤茶の平碗。
どちらも鎌倉〜室町時代に量産されていたといわれている「山茶碗」の写しから展開しています。


グレーの方は愛知県瀬戸市から南の猿投地区一帯で作られていたもの
レンガ色した方は同県常滑市や岡山県備前地域で作られていたものから想を得たもの。

土器などの野焼きからシフトして間もない頃。
どちらも土を焼くだけの単純な「やきもの」です。



店頭に立つと、
お客さん方からよく「どう使えば?」とご質問を受けます。

作り手側からあまりそういった縛りをしたくはない、
と思いつつも


ご覧の通り、絵柄もなければ釉薬もかけてありません。
これ以上ない“そのまま”。(これ以上いってしまったら、それはただの粘土。)

だからあまり手の込んだ料理には向かないでしょう。
裏を返せば、手をかけずとも受け止めてくれる器だと僕自身は思っています。

土に由来する動植物。
土に似つかわしくないわけがありません。


それから、
作家ものだから、古陶写しだから値が張るから
といってけして高尚な器でもありません。
当時の日用雑器。
使い込んではじめて、落ち着いてくるものです。

使う直前にでも
食器棚から出してきて料理を盛る、その前に
さっと水やお湯に通してもらえれば、嫌な臭いや汚れもずっとつきにくくなります。
そのたった数秒でだいぶ変わるものです。



せっかく手にした器。
ご自身の創意と工夫でいかようにも使えるはず。

手にしたその時から“わたし”の器。


そんなふうに器とお付き合いいただけたら、作り手冥利に尽きるのです。


ゆく先々でいろいろに使われ、年を重ねる器たち。
それらがもし再び一堂に会したら‥

そんな妄想も僕らを楽しませます。




人と器のいい出逢いを願ってやみません。



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味噌焼き大根

白土+無釉  碗
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by aji-kyuu | 2010-01-14 23:57 | 案内 | Comments(0)
小走り
ここ数年、年をまたぐこの時期は
それまでの行いの皺寄せがきて、そのほころびを直視せざるを得ない状況になります。

分かっている。
半年前くらいからおよその覚悟はしている。

とはいえやっぱりその厳然とした事実を目の前にすると、
まいります。

眠りが浅くなって、
しゅーと細く活気の抜けていく音が自分の耳でも聞こえるようで。

悔しい。



でも、今回はそんな薄暗い水底で良い本に出会えました。

以下引用。



「 〜 いやしくもカタリテである君は、なるべく深い沼を選び取るべきだ。
(中略)しかしながら、お前さんが深みにはまってどうする。
カタリテはその深い沼の上を小走りで駆け抜ける技を習得しなくてはならん。」

吉田篤弘『圏外へ』より




語ることの意味と意義の淵にはまり込もうとしていた一人の作家に「先生」が諭す一言。




もう
胸がパンパンに詰まって、ほころびが裂け目になるのも時間の問題だと半ば諦めていました。

悔しいけれど、納得できないけれど、
けれどけれどけれどけれど—



じゃあなぜ僕はその深い沼を自ら選んだ?
数あるうちからそちらを選んだ?
ぐすぐすと足掻きながら沈んでゆくため?

底のない沼の底を覗きこみたいから?
それもひとつ。
でも、
それならばひと知れず、自分ひとりですればいい。



いろいろな方々から、ときに親切にときに批判を込めて言われ続けてきました。
だから知らなかった、わけではない。
耳タコ耳タコ、内心つぶやいてすらいたかもしれません。

それでも解っていなかった、というのが本当のところ。

今日、その解ることに繋がりうる糸口が目の前に下りてきた。
一冊の小説を通り抜けて。
そんな、遠くに瑞光を見るような感動。



もう少し、あと少し。





そんなこんなで本日から、今年の目標は「小走りの習得」です。


右足を前へ出さぬうちに左足が前へ出ぬうちに右足が前へ出ぬうちに左足が前へ出る

ただ左足を出すこととは「心意気」、「重み」が違うというその一歩を繰り返し繰り返し、
走らず急がず、もたつかず。


僕にもきっと小走りはできる。
できるんだ。
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by aji-kyuu | 2010-01-07 22:08 | 読む | Comments(0)
2010年 正月
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新年、明けましておめでとうございます。



今年もよろしくお願いいたします。




昨夜、実家からまだしっかり雪の残る本巣に戻りました。

「もう仕事始めか」と問われると、
仕事と私生活の境があるようでないために、いささか答えよどんでしまいますが
今日から「いつも」に戻ったわけです。


大晦日以降3日間はその「いつも」とあらゆる点でかけ離れていたので
あまりに長い「お休み」も正直恐いもの。
それにもとより「お休み」下手。

かたや
やるべきこと、やりたいことは際限もなく。




2010年
挑戦あるのみ。

まだ、まだ、
と求め続けていきます。


変わらぬご支援をいただけると幸いです。
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by aji-kyuu | 2010-01-04 00:14 | その他 | Comments(0)