意外と音楽好きなのです。
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わあ4月。
毎日がびゅんびゅん過ぎる。


ついさっきラジオから荒井由実の「卒業写真」が流れていた。
この時期さして珍しくないのだけれど、
いつもなら聴き流すのだけれど、

ふと気を緩めた隙に、ひっぱられて、のみ込まれて
平静に聴いてはいられなかった。


  話しかけるように ゆれる柳の下を
 通った道さえ今はもう電車から見るだけ

 あの頃の生き方を あなたは忘れないで
 あなたは私の 青春そのもの

 人ごみに流されて 変わってゆく私を
 あなたはときどき 遠くでしかっって


 あなたは私の 青春そのもの




あの頃の自分の生き方が正解だったかは、今もって分からないけれど
あの頃の全部を青い春としていっしょくたに抱えたまま、この先もいきたい。



先日ひとまわり年上の人の車に乗せてもらった時、HDプレイヤーの中に松田聖子をみつけて
それを一通りかけてもらいながら喋ったこと。

松田聖子や荒井由実、山口百恵。松山千春にはっぴいえんど、さだまさし。
70〜80年代の音楽って本当にいい。
今でこそ細かにジャンリングされてしまうのだろう、いわゆる歌謡曲。

ゆるいくくりだったからこそ、言葉や形などなど外からのアプローチに始まることなく
内から溢れるにまかせて生まれ出た音楽。
そんなところだろうか。


そうでなければ、どうしてこうもあの頃の曲に惹かれるのだろう。


日々ラジオをにぎわす最近の音楽の大半は、恐ろしくぺらぺらです。
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# by aji-kyuu | 2009-04-02 22:48 | 聴く | Comments(0)
期待は気体のように、
ここしばらくなんだかとても忙しい。
とはいえ、そのわりに結果が出てきていないので正直しんどくもあるのだけど
そこへの結びつきを焦って求めないで、じっと辛抱辛抱。
そんなとき、忙しくしている内容に自分が納得できていること、それだけがほとんど唯一の支え。

大丈夫大丈夫  
と唱える。


今日は旧くからの友人であり、文字どおり同志のAが我が家に来てくれた。
彼とはいつ会っても、互いに尽くせないくらいの語りたい“思い”があるからか、ひたすら喋り続けることができて
今日も夕方から延々と。

もちろん立場もアプローチも違うのだけど、ここ数年来見ている方向は同じようで
岐阜へ来て以降、ともすれば忘れがちだった僕の中の危機感を掘り出して、交換しあえたことは
タイミングとしてもとても有り難かった。



傷付くのを恐れてあえて“期待”しないのでなくて、
存分に期待して、それを推進力に変えていく。

ただただ期を待つだけでは、あたりまえに明日は来て
そうしてまた、ただただ待つ今日が過ごされるだけ。

期待はそれ自身形にはならないけれど、形あるものを動かすための風にはなるわけで

あとは、どんな形をどちらへ動かすか、それさえ明確に意識できればきっと‥

と期待して。




‥思いは尽きません。
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# by aji-kyuu | 2009-03-21 00:50 | 考える | Comments(0)
僕を作ってきた作家達・6
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豆腐をステーキしてみる。



白土+灰釉   鉢

つい先日窯から出したばかり。
このシリーズの新しい形です。

やっぱり、少し深さをつけるだけで盛り付けの“間”がぐっと広がる。
近日作品録にもアップします。

今日ひさびさに街中を車で走っていて、
すれ違う対行車の運転手3人に1人はマスクしていることに気付く。

そういえば家を出る時フロントガラスが嫌に汚れていたなあ
黄砂かと思っていたけど、どうも花粉らしい。

歩く人もたいてい顔をすっぽり。
いつの頃からかマスクも市民権を得たようで、
とはいえ、表情のうかがいにくさに慣れなくて
マスク人のそぞろ歩く光景はまだちょっと落ち着かない。

花粉症の苦難を知らないからいえるのですが。


花粉といえば思い出す。
ウォルフガング・ライプ「マツの花粉」


まだ大学に入学して一年にもならない頃、
同郷の先輩に連れられて行った郷里の美術館。
そこでたまたまやっていたのがウォルフガング・ライプの個展だった。

美術はもちろん、とりわけ当時盛んに使われ始めていた現代美術という用語に
「デザイン的なアプローチで大衆に迎合しているか、内に内にと自閉している不健全なやりくち」
くらいの、それこそ狭い認識しか持ち合わせていなかった僕には
ライプの表現を受け止められる度量も当然になく、
床にちりばめられ、なんだか判然としないぼやけた黄色や
ただそのままに白く見える正方平面は理解し難く、
ゆえにどうも引っ掛かる、そんな展示体験だったと思う。

あの時あの場所でのあの“引っ掛かる”体験は
それからいくどもいくども僕を小突き、揺すり、記憶の底に埋もれていくどころか、
緩やかに緩やかにひずみとして積み上がって、ついには僕の表現の足下をぐるり裏返すような、
そういう転換の大きなきっかけとなった気がする。

後々、当時の展示図録を探しまわったけれど
どこであれとうに在庫切れだった。


日常生活から地続きにある表現行為とその結果。
今でこそ当たり前に語れもするのだろうけれど、
芸術表現のボーダレスな側面を実感見とともにまざまざと観せてくれたのは彼でした。


ミクロとマクロ、過去と未来を自在に行き来するような
Aから非Aへと容易く接続できるような
というかそこにはもとより境界などない、あえて作ることもない、といった
そういう想像力を全身で抱き止めておきたいと切に思う。


繋げるのはいかがかとも思いつつ、
でもたぶん、そういうこと。

You may say I'm a dreamer. But I'm no the only one.

ジョン・レノン「imagine」
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# by aji-kyuu | 2009-03-13 00:28 | 観る | Comments(0)
いただきます
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ゆうべの大根を煮汁ごとのっける。







赤土+白化粧+長石釉  片口碗


ここのところのお昼はもっぱら丼もの。
夕飯の残りや作り置きを、温め直したお米の上へ。
たまに汁もの付けて。

なにより準備に早いし、片付けも楽ちん。

米さえおいしければ、なんだってのせられる。

そう、すべては米。


学生の時分はもとより、米どころ岐阜に住いながらもつい先日までただただ安価を求めて米を買っていた。

ところが数カ月前、
そんな自分の選び方を悔いるようなお米に当たってしまってからというもの
「やっぱりお米」と、そこには惜しまないよう心に決めている。

こういってはなんだけれど、米にもピンキリがある。
もちろん好みもあるだろう。
粒立ち、粘り‥
とはいえ売価上たった数百円しか差がないものでも
味に大きな開きがあることだって、当然にある。
それを身に沁みて感じている。


たかが米、されど米。
最近は茶碗にむかって、毎食
「うまい、」と呟いてしまう。
それだけで有り難い、と思える。


今の生活をおくるようになって、
“人生のうちで、食に捧げられる時間の割合”をあらためて考えることもしばしば。
仕事柄、とういよりは人間ですから。

僕ら働くいきものではなくて、まず食べるいきものなのですから。


そうだそうだ。
おろそかにできるわけがない。
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# by aji-kyuu | 2009-03-08 19:47 | 食べる | Comments(0)
椿か、アンパンマンか、
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色味といい背景のガラス模様といい光線の方向といい
なんだか少女漫画のようで。

小学生の頃、姉の漫画「僕の地球を守って」にどっぷりだったことを思い出す。



ともあれ写真はお隣の工場の窓辺にコップで生けられていた八重の椿。
「珍しかったからあ、もらってきたの」と、おばちゃん。
「でも‥ね。ツバキは‥ね」と、もう一人のおばちゃん。




紅色の花弁を一枚一枚はらはらと散らすのは山茶花で、
まるまるぼとりと落花するのが椿。

その様が打ち首を連想させることから、忌み嫌う人もいるようです。

実際
道の端、黒々としたアスファルトの上やなんかで
水っぽく熟れ過ぎて、鮮やかさを失ってなお生めかしいピンクの「頭」を目にすると
やっぱりドキッとする。

枯れはてて落ちるならまだしも、どこかプツリと中断させられたようなボリュームを残して絶えている姿。


でも、よくよく考えてみれば
椿においての落花というのは、僕らが直にイメージしてしまいがちな「死」の意味合いよりか
むしろ新たな「生」を産み落とす、そのためにこそとられている方法のはずで
とすればなんら避けるべく要素もないのだけれど。

たとえば自分の一部を切り分けるように、「次」を生むのでなく
自分の生自体にとって代わらせるかたちで、「次」へ繋ぐ。
そんなふうに見えているからなのでしょうか。




生死は表裏一体。
生きとし生けるものはみな「生まれた瞬間から死に始めている」なんていうけれど
では逆に、椿的な死生観を運用するならば
僕らみな「生まれた瞬間から生み始めている」のでしょうか。

どちらかといえば後者でありたい。
そう考えていたい。



そんなこんな、つらつら思考は旅します。
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# by aji-kyuu | 2009-03-01 22:28 | 考える | Comments(2)