期待は気体のように、
ここしばらくなんだかとても忙しい。
とはいえ、そのわりに結果が出てきていないので正直しんどくもあるのだけど
そこへの結びつきを焦って求めないで、じっと辛抱辛抱。
そんなとき、忙しくしている内容に自分が納得できていること、それだけがほとんど唯一の支え。

大丈夫大丈夫  
と唱える。


今日は旧くからの友人であり、文字どおり同志のAが我が家に来てくれた。
彼とはいつ会っても、互いに尽くせないくらいの語りたい“思い”があるからか、ひたすら喋り続けることができて
今日も夕方から延々と。

もちろん立場もアプローチも違うのだけど、ここ数年来見ている方向は同じようで
岐阜へ来て以降、ともすれば忘れがちだった僕の中の危機感を掘り出して、交換しあえたことは
タイミングとしてもとても有り難かった。



傷付くのを恐れてあえて“期待”しないのでなくて、
存分に期待して、それを推進力に変えていく。

ただただ期を待つだけでは、あたりまえに明日は来て
そうしてまた、ただただ待つ今日が過ごされるだけ。

期待はそれ自身形にはならないけれど、形あるものを動かすための風にはなるわけで

あとは、どんな形をどちらへ動かすか、それさえ明確に意識できればきっと‥

と期待して。




‥思いは尽きません。
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# by aji-kyuu | 2009-03-21 00:50 | 考える | Comments(0)
僕を作ってきた作家達・6
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豆腐をステーキしてみる。



白土+灰釉   鉢

つい先日窯から出したばかり。
このシリーズの新しい形です。

やっぱり、少し深さをつけるだけで盛り付けの“間”がぐっと広がる。
近日作品録にもアップします。

今日ひさびさに街中を車で走っていて、
すれ違う対行車の運転手3人に1人はマスクしていることに気付く。

そういえば家を出る時フロントガラスが嫌に汚れていたなあ
黄砂かと思っていたけど、どうも花粉らしい。

歩く人もたいてい顔をすっぽり。
いつの頃からかマスクも市民権を得たようで、
とはいえ、表情のうかがいにくさに慣れなくて
マスク人のそぞろ歩く光景はまだちょっと落ち着かない。

花粉症の苦難を知らないからいえるのですが。


花粉といえば思い出す。
ウォルフガング・ライプ「マツの花粉」


まだ大学に入学して一年にもならない頃、
同郷の先輩に連れられて行った郷里の美術館。
そこでたまたまやっていたのがウォルフガング・ライプの個展だった。

美術はもちろん、とりわけ当時盛んに使われ始めていた現代美術という用語に
「デザイン的なアプローチで大衆に迎合しているか、内に内にと自閉している不健全なやりくち」
くらいの、それこそ狭い認識しか持ち合わせていなかった僕には
ライプの表現を受け止められる度量も当然になく、
床にちりばめられ、なんだか判然としないぼやけた黄色や
ただそのままに白く見える正方平面は理解し難く、
ゆえにどうも引っ掛かる、そんな展示体験だったと思う。

あの時あの場所でのあの“引っ掛かる”体験は
それからいくどもいくども僕を小突き、揺すり、記憶の底に埋もれていくどころか、
緩やかに緩やかにひずみとして積み上がって、ついには僕の表現の足下をぐるり裏返すような、
そういう転換の大きなきっかけとなった気がする。

後々、当時の展示図録を探しまわったけれど
どこであれとうに在庫切れだった。


日常生活から地続きにある表現行為とその結果。
今でこそ当たり前に語れもするのだろうけれど、
芸術表現のボーダレスな側面を実感見とともにまざまざと観せてくれたのは彼でした。


ミクロとマクロ、過去と未来を自在に行き来するような
Aから非Aへと容易く接続できるような
というかそこにはもとより境界などない、あえて作ることもない、といった
そういう想像力を全身で抱き止めておきたいと切に思う。


繋げるのはいかがかとも思いつつ、
でもたぶん、そういうこと。

You may say I'm a dreamer. But I'm no the only one.

ジョン・レノン「imagine」
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# by aji-kyuu | 2009-03-13 00:28 | 観る | Comments(0)
いただきます
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ゆうべの大根を煮汁ごとのっける。







赤土+白化粧+長石釉  片口碗


ここのところのお昼はもっぱら丼もの。
夕飯の残りや作り置きを、温め直したお米の上へ。
たまに汁もの付けて。

なにより準備に早いし、片付けも楽ちん。

米さえおいしければ、なんだってのせられる。

そう、すべては米。


学生の時分はもとより、米どころ岐阜に住いながらもつい先日までただただ安価を求めて米を買っていた。

ところが数カ月前、
そんな自分の選び方を悔いるようなお米に当たってしまってからというもの
「やっぱりお米」と、そこには惜しまないよう心に決めている。

こういってはなんだけれど、米にもピンキリがある。
もちろん好みもあるだろう。
粒立ち、粘り‥
とはいえ売価上たった数百円しか差がないものでも
味に大きな開きがあることだって、当然にある。
それを身に沁みて感じている。


たかが米、されど米。
最近は茶碗にむかって、毎食
「うまい、」と呟いてしまう。
それだけで有り難い、と思える。


今の生活をおくるようになって、
“人生のうちで、食に捧げられる時間の割合”をあらためて考えることもしばしば。
仕事柄、とういよりは人間ですから。

僕ら働くいきものではなくて、まず食べるいきものなのですから。


そうだそうだ。
おろそかにできるわけがない。
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# by aji-kyuu | 2009-03-08 19:47 | 食べる | Comments(0)
椿か、アンパンマンか、
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色味といい背景のガラス模様といい光線の方向といい
なんだか少女漫画のようで。

小学生の頃、姉の漫画「僕の地球を守って」にどっぷりだったことを思い出す。



ともあれ写真はお隣の工場の窓辺にコップで生けられていた八重の椿。
「珍しかったからあ、もらってきたの」と、おばちゃん。
「でも‥ね。ツバキは‥ね」と、もう一人のおばちゃん。




紅色の花弁を一枚一枚はらはらと散らすのは山茶花で、
まるまるぼとりと落花するのが椿。

その様が打ち首を連想させることから、忌み嫌う人もいるようです。

実際
道の端、黒々としたアスファルトの上やなんかで
水っぽく熟れ過ぎて、鮮やかさを失ってなお生めかしいピンクの「頭」を目にすると
やっぱりドキッとする。

枯れはてて落ちるならまだしも、どこかプツリと中断させられたようなボリュームを残して絶えている姿。


でも、よくよく考えてみれば
椿においての落花というのは、僕らが直にイメージしてしまいがちな「死」の意味合いよりか
むしろ新たな「生」を産み落とす、そのためにこそとられている方法のはずで
とすればなんら避けるべく要素もないのだけれど。

たとえば自分の一部を切り分けるように、「次」を生むのでなく
自分の生自体にとって代わらせるかたちで、「次」へ繋ぐ。
そんなふうに見えているからなのでしょうか。




生死は表裏一体。
生きとし生けるものはみな「生まれた瞬間から死に始めている」なんていうけれど
では逆に、椿的な死生観を運用するならば
僕らみな「生まれた瞬間から生み始めている」のでしょうか。

どちらかといえば後者でありたい。
そう考えていたい。



そんなこんな、つらつら思考は旅します。
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# by aji-kyuu | 2009-03-01 22:28 | 考える | Comments(2)
コーヒー・アンド・ブレッド
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白土+灰釉   五寸皿



コーヒーが好きです。

深めに煎って、香りやにが味が主張しているような、
とろりと濃いめにいれられたものがとりわけ好きです。



幼き日の僕の目には、レストランなんかでの食後にコーヒーを“決まりごと”のように頼む大人が不思議にうつったもので、
とはいえジュースは子供地味てためらわれ、ならば「コーヒーより紅茶」としていた記憶も遠くないはずなのに
いつの頃からか定かではないけれど、いまや純然なるコーヒー党。
大学に入って間もない頃には、豆を挽く真似事さえしていました。


岐阜に引っ越してすぐ近所のスーパー二、三件で市販されている豆をいく種類も片っ端から買っては試し、
安価に満足いくコーヒーを探したのはやっぱり、それが僕の生活をまっとうにしてゆくのに欠かせないものだから。
そう思えたから。


毎朝食後と昼間の休憩に。
ときにはちょっとしたお菓子をつまみつつ。

写真はしばらく前にうちへ来た友人が手みやげに携えてきたハード系のパン。
こういうパン屋のパンも結構好きなのです。
なかなか日頃手の出せるものじゃありませんが。


そうそう
僕はたいてい、コーヒーはホット。
把手のない“湯呑み”で喫みます。

その温度をじかに感じたいがため、あえてマグカップなんかは避けます。
熱い熱い、とふーふーしながらすするコーヒーもいいもんだと思うので。


例えば缶コーヒー。
もし缶に把手が付いていたら、
あの寒空の下でかじかんだ掌に伝わる小さな幸福感は、きっと得られない。

そんなふうに触覚をも動員するような食の楽しみ方を僕らは生まれる前からで知っているのだろうな。
和食器の素形を見るにつけ、そんなことも思ったりするわけで



ああ、そうか。
日本の道具は身体の延長。


コーヒーを喫みながら、はたまた轆轤をひきながら
毎日のように同じことを思うのです。
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# by aji-kyuu | 2009-02-23 02:45 | 食べる | Comments(4)