僕を作ってきた作家達・3
b0156116_2215612.jpg「メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス」
という劇団黒テントの演劇がある。
高校生の一時期、学校行事との絡みもあってか演劇にはまり込んで、
戯曲を読みあさり、小遣いはたいて劇場に足を運んだりしていた。
その頃に観て未だ印象に残っている一本がこれ。

話の筋は有って無いようなもので、とりたてて激しいアクションもなく、
そこいらの道ばたにいくらでも転がっていそうな、そんな話。
それでも、残り続けるあの印象。


というのも、当時僕の地元愛知県発祥“遊べる本屋”が爆発的に流行っていて、
いつ頃からか、学校帰りに地下鉄途中下車でそこへ寄るのが週一回のお決まりコース。
そして買うのは決まって漫画。
松本大洋
「メザスヒカリ〜」も、そんな僕の青春そのものである彼の作なのです。


彼に男の浪漫(≠ロマン)を描かせたら、右に出るものはいません。きっと。

お馬鹿で格好良く、格好良くて悲しくて、悲しいけれど笑っちゃえ。
そんな漫画を描き続けている。

中でも短編集「日本の兄弟」以降には僕も多大きな影響を受けてきた。

線画の構造やら画面構成やら、その後の映像制作に少なからず活きていたろうし、
なによりその精神性。


「GOGOモンスター」や、当時やはり読みあさった諸星大二郎の短編集などにみられる日本的な“カミ”への“畏れ”が、
意外にも現在の僕のもの作りにリンクするばかりか、
むしろその基盤になっていることに、あらためて気付かされる。





はじめは皆ヒーローに憧れる。
「僕はきっとなにものかであるはずだ」。
いずれ
「僕はなにものかにならなければ」と焦る。

でもそうじゃない。
僕は僕のままで、とるにたらない小市民だけれど
ただ、ただ、ヒカリノサキを目指す。パラダイスを目指す。
それだけはできます。

続けます。
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# by aji-kyuu | 2009-02-02 23:19 | 読む | Comments(0)
舌とわたし
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スーパーにて見切り品のサツマイモを
はちみつといただきものの柚子で。





赤土+白化粧+長石釉  碗


以前までは、さつま芋やじゃが芋などは好んで食べたりしなかったけれど、
最近はよく煮たりしていただく。

でんぷんでんぷんしていて、粉っぽいというのか。
味が入りにくかったりもして。

と思っていたはずが、今はそんなに気にならない。
粉っぽさは「ほくほく」と
薄味は「芋の味」と
いつからかすり替わっていた。


それから、
学生時代はけして使うことのなかった食材、小松菜はおひたしから炒め物まで
いまや我が家の台所最多登場。

品種によって胡麻の香りがしたり、ミルクの風味を感じたり。
なるほど、それらと合わせて調理される理由にはっとする。

しかも、となり町特産。



歳を重ね
住む土地がかわり
生活がかわれば
自然、味覚は変わる。


そんな当たり前のことにいちいち気付かされるこの頃。
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# by aji-kyuu | 2009-02-01 23:11 | 食べる | Comments(0)
日が暮れるのも少しずつ遅くなってきたこの頃。

今日、ちょうどそんな時間
工房の東に向いたすりガラスの窓の方へふと顔を上げると
なんともいえない青、一色。

わ、
思わず口に出してしまいました。

こういうの、写真に撮ってしまうのは好きでないので想像にまかせたいのですが、
本当にやわらかくて、静かで、ほのかに切ないブルー。

サイレント・ブルーとか云ったっけ。

しばしそんな青に自分を浸して、ぼんやりしてみました。


「ブルー」で思い出したこと。
デレク・ジャーマンという映像作家の映画『Blue』。
この監督の遺作となった作品。

全編が画家イヴ・クラインに捧げたというブルー一色。
映像はそれのみ。
そこに語りや音楽がかぶる、というもの。

幸いなことにこれを観たのが大学の大きな講義室。
しかもスクリーンにプロジェクション。

スクリーンからは青の照り返し。
染まる教室。
僕も染まる。


あの時の水に浸っているような感覚に似ているなあ、と。

翻って、
デレク・ジャーマンが云わんとした「死生観」っていうのは、
こういうことなのかもしれないなあ、なんて。
一寸先は闇なんかじゃなくて。



こんがらがったまま携えて、何年も経ってから不意にほぐれたり。
そういうことって結構ある。
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# by aji-kyuu | 2009-01-27 22:41 | 考える | Comments(0)
僕を作ってきた作家達・2
一昨日、屋外で15℃。
一転、昨日は日中でも5℃を下回って、吹雪いたり日が差し込んだり、目まぐるしく変化する空で、
窓の外をときおり見遣りながら、本を読んでいることの多い一日でした。


ここに住まいを移してからほんのつい最近まで、僕の生活に本はなかった。
本どころか活字に触れることすら稀。

もともとが、小学校の図書室にならんでいた『シートン動物記』と『ファーブル昆虫記』を低学年のうちに読破するような本のムシ。
自覚している以上に活字に飢えていただろうと思う。
仕事に使うため隣家から頂いた古新聞を作業の合間合間に逆さから読み入ってしまうこともしばしば。

そんな先日、「そうか、借りればいいのか」と市営の図書館へ。
なんでこんなことに気付かなかったのか、自分でも情けないけれど、
これでやっと渇きを癒せる、と二日に一冊くらいは読んでいる。


高校生の頃から、本はたいてい勘で選んできた。
とはいっても、タイトルや装幀、文体などからなにか引っ掛かってくるものはあるか、という判断。
これが結構アタリを引く。
その時の自分が置かれた状況、考え、興味。そういったものに内容等々ぴたりとくることが不思議と多い。
手にとって開く前から、なんだか惹かれるようなものはまず間違いない。

とにかく、これまで本との出会いには恵まれてきたと思う。


なかでも、とりわけ印象深く、僕に影響を与え続けてくれる作家は“クラフト・エヴィング商會”名義で執筆から装幀などを手掛ける吉田篤弘


とある旅先で、なんとはなしに立ち寄った本屋。
それまで、なぜか他のいくつかの店でも目に付いていた、けして派手ではない表紙の一冊を買って以降、この作家の“ものがたり”の底流に強く共感し、身をゆだねて、
知る限りはすべて読んできた。

こ難しい語句は使わない。
平易な言葉の、その絶妙な組み合わせだけで文章を編み、ものがたり、
そらに浮かぶある匂いとか、音とかにすぅと形を与えてくれる、ような。
それもその輪郭は、太く描かれるようで、まるでぼんやりしている。

単語や明確な説明ではいえない、あるいはいいたくない事柄も彼になら託せる、
みたいな。



  世界はまだ終わらないというのにひとが世界を終わらせたがっている、と思う (『78』より)




この一文を、僕はいつだって握り締めている。
写真を撮っていた時も、映画を作っていた時も、
もちろん器を作っていくこれからも。
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# by aji-kyuu | 2009-01-25 19:13 | 読む | Comments(0)
温度差
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先日の雪化粧。





は、どこへやら。
明日はこの辺りの最高気温が14℃とか。
そんな日々の気温差も気になるわけですが、それよりなにより…



昨晩は僕の生活における唯一の情報源ラジオも、この話題で持ち切りでした。


アメリカ合衆国新大統領、就任演説。
全文和訳を活字で読みたいところですが、ひとまず要旨だけはつかめたところ。

ラジオニュースではワシントンの異常な盛り上がりをとにかくひつこく伝えていて、
映像がないゆえに、より凄まじい光景を想像してしまいます。

例えば、スパイク・リー監督の映画『ブラック・パンサー』や『マルコムX』。
思い返せば中学生の頃、海の向こうでの差別をどこか“フィクション”として観ていて、(実際はどちらもノンフィクションが下敷かれている)
そのなにもかもが、ドラマティックというか、大袈裟に描かれていることをとりわけ意識してはいなかった。
映画ですから、画面の中では当然の演出だと。

ここのところのアメリカの混乱や活況はなんだかとても気味が悪い。
日本での報道がよりそう思わせるのか、ちょいと芝居じみている。

でも、多分現実ってそういうものなんだろうな、とアメリカ市場の株価の冷静な反応を聞くにつけ思ったりもする。



温度差といえば、
実は今週末僕の暮らす県の知事選挙がある。
通知が送られてくるまで知らなかったのだけれど、もちろん票は投じるつもり。

が、困ったことに、候補者が分からない。
一切の選挙内容に関する情報がない。

新聞をとっていないから、存分にとはいかないにしろ選挙広報くらいポストに入らないものか、と待てどもなにもこない。
しかたなく今朝役所へ。

どうも、僕が諸々の事情から地区の組の活動に参加していないため、戸数に認められず、配付されなかったようで。

なんですか、それ。
腹が立つ。

確かに住民であり、税金も絞り出して納めているのに、この扱い。
というか、もし僕がこうして申し出ていなかったら、権利行使する機会を奪われていたわけで。


今回選ばれる知事さんが掲げ、実行してゆくなんらかの政策によって、まず直接的に救われるべき社会の最下層、末端の人々の多くはこんなようにして権利を権利としてさえ自覚することなく、うやむやにされて、ただただ厳しさに慣れることをのみ生きる術にしていかなければならないのだろうか。(特に東海圏は少し前までの好景気から一転、製造業が軒並み経営大不振にある。そんな時に、だ。)

少なくとも、この狭い県のほどほどの規模の市に住む僕が、ここ最近、候補者の熱を帯びた訴えを聞いたことはありません。
街も別段平静です。
本当に選挙なんてあるのだろうか…



日本の政治システムの内側にいる方々にとって、新たな層が政治に本気で興味を持ち、参政してゆくことは望ましくないことのようで、呆れと無力感に浸りながら、ワイドショー的なネタ程度にいじってくれていれば充分、とでも思っているのでしょう。

かつてのような活動をされては、と。




アメリカはもちろん、未だ政治的な暴動の起こるドイツや、クーデター続発の東南アジアを見て、ほんの少し悔しさのようなものが沸くのは僕だけだろうか。
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# by aji-kyuu | 2009-01-22 23:52 | 考える | Comments(0)