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僕を作ってきた作家達・7
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今朝、大根の花が咲いているのに気付いた。

台所の窓辺で、水を張ったお皿に浮かべておいた大根のあたま。
葉がわさわさ繁るのを期待したものの、中心から一本の茎が伸び続けるだけで
しばし見放してしまっていたところに、思いがけず小さな黄色い花がついた。


と、ここまでは良かった。


写真に撮って数時間後、昼時にふと見ると
花を付けた先からくたりと折れている。
小さいながらも活き活きと生を主張してみえたそれが
まるで魂を抜き取られたかのように‥

その昔、写真機の黎明期。
写真に撮られると魂が抜かれる、と本気で怖れる人らがいたという。

いや、まさかね。



そんなことにちらと心がささめくのを覚えながら
以前使っていたNIKONのフィルムカメラを久々に眺めてみた。

映像を志して大学へ通ったその前半期。
学外では仲間と映画作りに、学内ではもっぱら写真について学んでいた。
ピンホールからモノクロ現像、カラープリントまで
自ら選択して、それなりの熱意とその手段への根拠ない信用を注ぎ込んでいた。
「とにかく数を撮れ」といった方針に反発しながらも
今ふりかえってみると、先の道筋をみつけた思いだったのかもしれない。

だから自然、写真の展覧会へは積極的に出向いたし写真史も掘り返した。

その両方からぶち当たり、結果僕を写真から遠ざけた写真家がいる。
中平卓馬
60〜70年代の日本写真界を批評の面からも解体し、再構築しようとした小さな巨人。
伝説の人。


彼の大回顧展が横浜美術館で開かれた。(「原点復帰—横浜 中平卓馬展」2003年)

そこで目撃した記憶喪失直前期の一連の“図鑑”的写真群や近年の気負いないカラープリント、
そしてなにより天井から床まで印画紙を裸で何十枚と連ね壁一面を覆った展示に愕然とし、
なおかつその際購入した「なぜ、植物図鑑か?」等の評論集に深くまで届くボディブローを見舞われ、
僕の軸脚は写真から離れた。
もっと言えば、逃げた。



何年経てもなお、中平卓馬という人とフィルムカメラは僕の内に敗北感を仄めかせる。
それに今気付く。

とはいえ、何年ぶりかに開く彼の写真論集は(もとより発行は1973年!)それでも褪せずに響く言葉が詰まっていて
現在の僕の仕事とリンクして読めてしまうことも事実。


無機と有機のあいだ
鉱物と動物のあいだ
そのあいだに曖昧な輪郭でもって生まれてくるはずのもの。
それは多分僕のいう“あじのひもの”や“きゅうりのつけもの”とほとんど見事に重なる。


どうやら一周回ってきたようです。
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by aji-kyuu | 2009-04-09 18:59 | 観る | Comments(0)
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