テレビを置かず、新聞もとらず、本も雑誌も買わない。
唯一、かけっぱなしのラジオからタイミング良ければ聴き取ることもある、そんな程度。 ネットを彷徨うこともやめた。 情報の入り口を極端に狭めて暮らすようにして一年半。 それでも目や耳鼻を塞がなければ、僕の必要とする情報はちゃんと入ってくる。 “タイムリー”とはいい難いけれど、信頼のおける人づてに。 このくらい、このかたちでいいのかもしれない、と思う。 そういった生活を始めてからというもの、社会のシステムとの付き合い方をより一層考えるようになった。 自分の場合、システムのただ中で暮らすというより、 システムとどう関わって暮らすか、になるのだろうけども。 これまでとは違った側から、かつ実際的な位置から社会を考えている。 日常から歩みよるアプローチでしか“社会”を考えなくなったから、そのすべてが空論とは感じられないし どちらかといえばむしろすぐ手の届くそこの岩壁を凝視できている、そんな実感をたずさえて。 ここ数カ月のこと。 小沢健二がボリビアで書いた論文(?そう呼ぶに相応しいのかどうか)「企業的な社会、セラピー的な社会」を友人から入手して読み、 ひたすら頷き、与えてくれる言葉に感謝しつつも 批判のためとはいえ、ちょっと度の過ぎたブラックな表現に滅入り なだいなだの「TN君の伝記」(76年刊行の再刊)で語られる、自由民権運動の思想的支柱中江兆民の“恢復の民権”という発想に共感し、救われ 村上春樹がエルサレム文学賞受賞時、イスラエルに出向いておこなったスピーチ(原文では読めないながら)の隠喩表現と作家としての態度に拍手して ‥ ‥ 時も場所も様々な地点から発信された情報がそれぞれ点として集まり、 僕の中で共通項が見出され解釈され線となる。 で、それら線は縦に横に張り巡らされ、あるいは人との議論に持ち寄られ 編まれ、面になって— 質(言い換えれば整合性)とか量とかよりか、その無数の点でしかない情報をどう面に編み込んでいくか それが僕にとっては大事なことで その“編みもの”が考えること、僕のいわば趣味なのです。
by aji-kyuu
| 2009-05-16 02:01
| 考える
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